三詩集たる部分へは入つてゆくことにしようと思ふ。
 北川冬彦は嘗て最も潔癖に日本産の文學をうけつけなかつた詩人である。彼の愛したのはフランス、それもダダ以後の人々であつた。その代りその愛しやうは全く一通りのものではなかつた。私は屡々不思議な氣持に打たれたことがある。それは彼がそれらの人々に對する先輩としての尊敬や僚友としての友情を、まるでそれらの人々がみな東京に住んでゐるかのやうな「間近さ」で表現するからであつた。アポリネエル、ジヤコブ、コクトオ、ブルトン、エリュアル、――それからマチス、ピカソ、シヤガル、アルキペンコ等々の畫家についてもそれは同樣なのであつた。「檢温器と花」はなによりもこれらの人々との親和をよくあらはしてゐる。
 彼は「檢温器と花」の後記に、ジヤン・コクトオの所謂「對象を消化して、次第にその主宰する獨自の世界へ連れていくやうな詩」を意圖したと云つてゐる。それは作品の全般について云はれたのではないが、たしかにそれらの作品はこの詩集の精髓をなすものである。私はその典型的なものとして「椿」「馬」「爬蟲類」「秋」などを擧げたい。
「椿」は Statics の領域内にあつたものを、彼がはじめて Dynamics のなかへ持ち込んだのである。

     馬

[#天から3字下げ]軍港を内臟してゐる

 北川冬彦のこのやうな詩になつて來ると、軍港といふ二字が既にもう軍港のヴイジョンを伴ふのである。そして「内臟してゐる」で、昔の人が南蠻渡來の人體解剖圖を信じた奇怪さで、馬がそれを「内臟してゐる」眞實を信じさせられてしまふのである。この最も短い詩は最も強い暗示力を示してゐる。そしてもう一つ注意さるべきことは、この詩の構圖が「物質の不可侵性」を無視することによつて成り立つてゐるといふことである。このことは屡々 cubism の畫家の motive になつてゐる。私はこの affinity についてもう暫く語り度い。
 彼の第一詩集「三半規管喪失」のなかに次のやうな詩がある。

     瞰下景

[#ここから3字下げ]
ビルデイングのてつぺんから見下すと
電車 自動車 人間がうごめいてゐる
目玉が地べたへひつつきさうだ
[#ここで字下げ終わり]

 高いところから下を見たときの感じがこんなにも生々と表現されたことはないであらう。この生々しさは何によるか。それは「目玉
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