を見ていたのであるが、その姿が南画の河童とも漁師ともつかぬ点景人物そっくりになって来た、と思う間に彼の前の小さい流れがサーッと広びろとした江に変じてしまった。その瞬間私もまたその天地の孤客たることを感じたのである。
 これはただこれだけの話に過ぎない。だが、こんな時こそ私は最も自然な状態で河鹿を眺めていたと云い得るのかもしれない。それより前私は一度こんな経験をしていた。
 私は渓へ行って鳴く河鹿を一匹捕まえて来た。桶《おけ》へ入れて観察しようと思ったのである。桶は浴場の桶だった。渓の石を入れて水を湛《たた》え、硝子《ガラス》で蓋《ふた》をして座敷のなかへ持ってはいった。ところが河鹿はどうしても自然な状態になろうとしない。蠅《はえ》を入れても蠅は水の上へ落ちてしまったなり河鹿とは別の生活をしている。私は退屈して湯に出かけた。そして忘れた時分になって座敷へ帰って来ると、チャブンという音が桶のなかでした。なるほどと思って早速桶の傍へ行って見ると、やはり先ほどの通り隠れてしまったきりで出て来ない。今度は散歩に出かける。帰って来ると、またチャブンという音がする。あとはやはり同じことである。その晩は、傍へ置いたまま、私は私で読書をはじめた。忘れてしまって身体を動かすとまた跳《と》び込んだ。最も自然な状態で本を読んでいるところを見られてしまったのである。翌日、結局彼は「慌《あわ》てて跳び込む」ということを私に教えただけで、身体へ部屋中の埃《ほこり》をつけて、私が明けてやった障子から渓の水音のする方へ跳んで行ってしまった。――これ以後私は二度とこの方法を繰り返さなかった。彼らを自然に眺めるにはやはり渓へ行かなくてはならなかったのである。
 それはある河鹿のよく鳴く日だった。河鹿の鳴く声は街道までよく聞こえた。私は街道から杉林のなかを通っていつもの瀬のそばへ下りて行った。渓向うの木立のなかでは瑠璃《るり》が美しく囀《さえず》っていた。瑠璃は河鹿と同じくそのころの渓間をいかにも楽しいものに思わせる鳥だった。村人の話ではこの鳥は一つのホラ(山あいの木のたくさん繁《しげ》ったところ)にはただ一羽しかいない。そして他の瑠璃がそのホラへはいって行くと喧嘩をして追い出してしまうと云う。私は瑠璃の鳴き声を聞くといつもその話を思い出しそれをもっともだと思った。それはいかにも我と我が声の反響を楽しんでいる者の声だった。その声はよく透《とお》り、一日中変わってゆく渓あいの日射《ひざ》しのなかでよく響いた。そのころ毎日のように渓間を遊び恍《ほう》けていた私はよくこんなことを口ずさんだ。
 ――ニシビラへ行けばニシビラの瑠璃、セコノタキへ来ればセコノタキの瑠璃。――
 そして私の下りて来た瀬の近くにも同じような瑠璃が一羽いたのである。私ははたして河鹿の鳴きしきっているのを聞くとさっさと瀬のそばまで歩いて行った。すると彼らの音楽ははたと止まった。しかし私は既定の方針通りにじっと蹲《うずく》まっておればよいのである。しばらくして彼らはまた元通りに鳴き出した。この瀬にはことにたくさんの河鹿がいた。その声は瀬をどよもして響いていた。遠くの方から風の渡るように響いて来る。それは近くの瀬の波頭の間から高まって来て、眼の下の一団で高潮に達しる。その伝播《でんぱ》は微妙で、絶えず湧《わ》き起り絶えず揺れ動く一つのまぼろしを見るようである。科学の教えるところによると、この地球にはじめて声[#「声」に傍点]を持つ生物が産まれたのは石炭紀の両棲類《りょうせいるい》だということである。だからこれがこの地球に響いた最初の生の合唱だと思うといくらか壮烈な気がしないでもない。実際それは聞く者の心を震わせ、胸をわくわくさせ、ついには涙を催させるような種類の音楽である。
 私の眼の下にはこのとき一匹の雄《おす》がいた。そして彼もやはりその合唱の波のなかに漂いながら、ある間《ま》をおいては彼の喉《のど》を震わせていたのである。私は彼の相手がどこにいるのだろうかと捜して見た。流れを距《へだ》てて一尺ばかり離れた石の蔭《かげ》におとなしく控えている一匹がいる。どうもそれらしい。しばらく見ているうちに私はそれが雄の鳴くたびに「ゲ・ゲ」と満足気な声で受け答えをするのを発見した。そのうちに雄の声はだんだん冴えて来た。ひたむきに鳴くのが私の胸へも応《こた》えるほどになって来た。しばらくすると彼はまた突然に合唱のリズムを紊《みだ》しはじめた。鳴く間がたんだん迫って来たのである。もちろん雌は「ゲ・ゲ」とうなずいている。しかしこれは声の振わないせいか雄の熱情的なのに比べて少し呑気《のんき》に見える。しかし今に何事かなくてはならない。私はその時の来るのを待っていた。すると、案の定、雄はその烈《はげ》しい鳴き方をひたと鳴きや
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