めたと思う間に、するすると石を下りて水を渡りはじめた。このときその可憐《かれん》な風情《ふぜい》ほど私を感動させたものはなかった。彼が水の上を雌に求め寄ってゆく、それは人間の子供が母親を見つけて甘え泣きに泣きながら駆《か》け寄って行くときと少しも変ったことはない。「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴きながら泳いで行くのである。こんな一心にも可憐な求愛があるものだろうか。それには私はすっかりあて[#「あて」に傍点]られてしまったのである。
 もちろん彼は幸福に雌の足下へ到《いた》り着いた。それから彼らは交尾した。爽《さわ》やかな清流のなかで。――しかし少なくとも彼らの痴情の美しさは水を渡るときの可憐さに如《し》かなかった。世にも美しいものを見た気持で、しばらく私は瀬を揺がす河鹿の声のなかに没していた。



底本:「日本文学全集別巻1現代名作集」河出書房
   1969(昭和44)年5月30日初版発行
入力:kaku
校正:浜野 智
1998年8月28日公開
2003年9月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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