出している母らしいひとの眼を彼は避けた。その家が見つかれば道は憶《おぼ》えていた。彼はその方へ歩き出した。
 彼は往来に立ち竦《すく》んだ。十三年前の自分が往来を走っている! ――その子供は何も知らないで、町角を曲って見えなくなってしまった。彼は泪《なみだ》ぐんだ。何という旅情だ! それはもう嗚咽《おえつ》に近かった。

 ある夜、彼は散歩に出た。そしていつの間にか知らない路を踏み迷っていた。それは道も灯もない大きな暗闇であった。探りながら歩いてゆく足が時どき凹《へこ》みへ踏み落ちた。それは泣きたくなる瞬間であった。そして寒さは衣服に染《し》み入ってしまっていた。
 時刻は非常に晩《おそ》くなったようでもあり、またそんなでもないように思えた。路をどこから間違ったのかもはっきりしなかった。頭はまるで空虚であった。ただ、寒さだけを覚えた。
 彼は燐寸《マツチ》の箱を袂《たもと》から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあった。手では掴《つか》んでいた。しかしどちらの手で掴んでいるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかった。
 暗闇
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