を傾けたことか、しかしその不可思議な美しさを證據だてるどんな美しい思想も湧いては來なかつた。
 私はかうも考へてみた。その音は通常音が人に與へる物的證據を可見的な風景のなかに持つてゐないからかと。即ちその音を補足する水の運動が見えないからかと。
 すると私はその樋が目にはいらなかつた前の、音のもとを探してゐるときの深祕に逆戻りしてゐるのだ。しかし今はその階段よりは一歩進んでゐる。その音を補足する視覺的な運動のかはりに樋といふもので補足が出來てゐる。そしてまだ以前のやうな神祕が殘つてゐるとすればそれは樋が未だ視的證據ではないからだ。それは知的證據にしか過ぎない。すると知識と視覺との間にはあんなにも美しい神祕が存在するのか。
 私は以前に芭蕉の
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霧時雨《きりしぐれ》不二《ふじ》を見ぬ日ぞ面白き
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の句に非常に胸を打たれたことを思ひ出した。さうかも知れない。
 しかしさう思つてもこの音の不思議な美しさには變りがない。朽ちた色の樋を見つめながら私は心に激しい情熱の高まつてゆくのを感じる。どうしようと云ふのか。探究の鶴嘴がよしやこの樋を碎いて、なか
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