に誕生して來るらしい希望かとも思ふ。遠い街道を通つてゐるなにかかとも思ふ。しかし私が間もなく近づくにつれ、それは小さい水のせゝらぎの音であることを聽きわける。だが、私の目はなにも發見することが出來ない。濕つた杉の根方には鳶尾《いちはつ》の花が咲いてゐる。其處にはなにもない。どこにもなにもない。たゞ小さい水のせゝらぎの音が眞近にきこえるのだ。するとこの私の眼を裏切る音が深祕な感情を持つて聽こえはじめる。しかし私は全く迂濶《うくわつ》だつたのだ。叢のなかには地面の僅な傾斜に沿つて、杉林の奧の方から一本の樋が通つてゐる。色の朽ちた丸竹の樋が。
 水音と一緒に鳴つてゐた深祕な感情は止んでしまふ。しかし、その音のなんといふ美しさだらう。私はそれに聽きほれるのだ。
 しかし私はその美しさのなかにまだ鳴りやまない神祕があるのを聽きわける。「なぜだらう。なぜこんなに一種人を惑亂させるやうな美しさに響くのだらう」私にはわからない。暫くして私はそこを立去る。
 私がはじめにこの徑に一つのたのしみを持つてゐると云つたのはこの樋のなかのせゝらぎのことだ。氣がついた最初の日から幾度私はそのそばに立ち、その音に耳
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