闇への書
梶井基次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)土堤《どて》の土に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昨日|土堤《どて》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)犇々《ひし/\》とせまつて來る
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     第一話

 私は昨日|土堤《どて》の土に寢轉びながら何時間も空を見てゐた。日に照らされた雜木山の上には動かない巨きな雲があつた。それは底の方に藤紫色の陰翳《いんえい》を持つてゐた。その雲はその尨大な容積のために、それからまたその藤紫色の陰翳のために、茫漠とした悲哀を感じさせた。それは恰もその雲のおほひかぶさつてゐる地球の運命を反映してゐるやうに私には思へた。
 雜木山の麓から私の坐つてゐた土堤へかけては山と山とに狹められたこの村中での一番大きな平地だ。溪《たに》からは高く、一日中日のあたつてゐる畑だ。午後になつてすでに影になつてしまつた街道を歩いてゐて、家と家との間から、また暗い家のなかに開いてゐる裏木戸から、この一帶の平地をちらと見た時程平和な氣持のするときはない。
 その雲はその平地の上に懸つてゐた。平地のはての雜木山には絶えず時鳥《ほととぎす》が鳴いてゐた。目に見えて動くものはない。たゞ山の麓に水車が光つてゐたばかりだつた。
 私は其處から眼を轉じて溪向ふの杉山の上を眺めた。その山のこちら側はすつかり午後の日影のなかにあつた。青空が透いて見えるやうな薄い雲が絶えずその上から湧いて來た。
 次へ次へ出て來る雲は上層氣流に運ばれながら、そして自ら徐《おもむ》ろに旋※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しながら、私の頭の上を流れて行つた。緩い渦動に絶えず形を變へながら、青空のなかへ、卷きあがつてゆく縁を消しながら。
 ――それはちやうど意識の持續を見てゐるやうだつた。それを追ひつ迎へつしてゐるうちに私はある不思議な現象を發見した。それはそれらの輕い雲の現はれて來る來方《きかた》だつた。それは山と空とが噛み合つてゐる線を直ちに視界にはいつて來るのではなかつた。彼等の現はれるのはその線か
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