らかなり距つたところからで、恰度燒きつけた寫眞を藥のはいつた※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ツトへ投げ込んで影像があらはれて來るやうな工合に出て來るのだつた。私はそれが不思議でならなかつた。
空は濃い菫色をしてゐた。此の季節のこの色は秋のやうに透き通つてはゐない。私の想像はその色が暗示する測り知られない深みへ深みへのぼつて行つた。そのとたん私は心に鈍い衝撃をうけた。さきの疑惑が破れ、ある啓示が私を通り拔けたのを感じた。
闇だ! 闇だ! この光りに横溢した空間はまやかしだ。
日を浴びながら青空を見るのは冬からの私のどんな樂しみだつたらう。山々に視界を遮られたこの村へ來て、私は海を見る樂しみを空へ向けた。日向《ひなた》へ寢轉べば、そこは常に岬の突角だつた。そして私は今迄に何隻の船をその無限の海へ出發させてゐたらう。
空の濃い菫色は見てゐれば見てゐる程、闇としか私には感覺出來なくなつた。星も月もない夜空よりも、眞に闇である闇を私は見たのだ。そして私は宿へ歸つて來た。
第二話
ずつと以前から私は散歩の途中に一つのたのしみを持つてゐた。下の街道から深い溪の上に懸つた吊橋を渡つてその道は杉林のなかへはいつてゆく。杉の梢が日光を遮つてゐるので、その道にはいつも冷たい濕つぽさがあつた。それは暗いゴチツク建築のなかを辿つてゆくときのやうな、犇々《ひし/\》とせまつて來る靜寂と孤獨とを眼覺ました。杉の根方には藪柑子《やぶかうじ》、匂ひのないのぎ蘭[#「のぎ蘭」に傍点]、すぎごけ、……數々の矮小《わいせう》な自然が生えてゐた。それらは私の足音が遠離《とほざか》ればまたわけの分らぬ陰濕な會話で靜寂を領するやうに思はれた。私の心は暗い梢のなかで圓い喉を鳴らしてゐる山鳩の心に觸れ、あるときは靜かに鳴き澄ましてゐる鶯のやうなものになつてしまつた。
このゴチツク風の建物の内部は、しかし、全然日光が射して來ないのではなかつた。徑《みち》を歩いてゆく私の影はすくすくと立つた杉の柱を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]折して來る、冬の日よりもまだ弱い日向のなかにあらはれ、木立のなかに消えたり、熊笹の上を這つたりした。乏しい日光に象《かたど》られる幽かな影繪は、あるひは私の頭であつたり、あるひは肩であつたりした。
だからそれは影であるといふよりも影の暗示であつた。物
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