」に傍点]の腕だ」と自分自身で確める。しかしそれはまさしく女の腕であって、それだけだ。そして女が帰り仕度をはじめた今頃、それはまた女[#「女」に傍点]の姿をあらわして来るのだ。
「電車はまだあるか知らん」
「さあ、どうやろ」
 喬《たかし》は心の中でもう電車がなくなっていてくれればいいと思った。階下のおかみは
「帰るのがお厭《いや》どしたら、朝まで寝とおいやしても、うちはかましまへん」と言うかも知れない。それより「誰ぞをお呼びやおへんのどしたら、帰っとくれやす」と言われる方が、と喬は思うのだった。
「あんた一緒に帰らへんのか」
 女は身じまいはしたが、まだ愚図ついていた。「まあ」と思い、彼は汗づいた浴衣《ゆかた》だけは脱ぎにかかった。
 女は帰って、すぐ彼は「ビール」と小婢《こおんな》に言いつけた。

 ジュ、ジュクと雀の啼声《なきごえ》が樋《とゆ》にしていた。喬は朝靄《あさもや》のなかに明けて行く水みずしい外面を、半分覚めた頭に描いていた。頭を挙げると朝の空気のなかに光の薄れた電燈が、睡っている女の顔を照していた。
 花売りの声が戸口に聞こえたときも彼は眼を覚ました。新鮮な声、と思った。榊《さかき》の葉やいろいろの花にこぼれている朝陽の色が、見えるように思われた。
 やがて、家々の戸が勢いよく開いて、学校へ行く子供の声が路に聞こえはじめた。女はまだ深く睡っていた。
「帰って、風呂へ行って」と女は欠伸《あくび》まじりに言い、束髪の上へ載せる丸く編んだ毛を掌に載せ、「帰らしてもらいまっさ」と言って出て行った。喬《たかし》はそのまままた寝入った。

 四

 喬は丸太町の橋の袂《たもと》から加茂|磧《かわら》へ下りて行った。磧に面した家々が、そこに午後の日蔭を作っていた。
 護岸工事に使う小石が積んであった。それは秋日の下で一種の強い匂いをたてていた。荒神橋の方に遠心乾燥器が草原に転っていた。そのあたりで測量の巻尺が光っていた。
 川水は荒神橋の下手で簾《すだれ》のようになって落ちている。夏草の茂った中洲《なかす》の彼方《かなた》で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒《せきれい》が飛んでいた。
 背を刺すような日表《ひなた》は、蔭となるとさすが秋の冷たさが跼《くぐま》っていた。喬はそこに腰を下した。
「人が通る、車が通る」と思った。また
「街では自分は苦しい」と思
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