もかかつて計畫し努力した、恐らくは三高はじめての試演會といふものは蓋のあく前日に、生徒としての最後のもので脅かすことによつて、差止めになつてしまつたのである。
劇研究會としてこの試演ほど大きい事業はなかつたのであるが、私達はこの會合の名目通りに劇ばかりをやつてゐた譯ではなかつた。私や中谷などは別に戲曲を物せず却つて小説を書いてゐた。そして「青空」を出すやうになつてからは誰も戲曲を書く物はなくなつた。當時私達の持つてゐた雜誌は回覽雜誌で「眞素木《マシロギ》」といふ、原稿を單に製本しただけのものであつた。これは三册程しか出來なかつたと思ふ。ここへ書いたものが、嶽水會雜誌に原稿が集まらなくて、僕のものや中谷のものが轉載されたことがあつた。この「眞素木」といふ名前は後で「青空」の隨筆欄の名になつた。
私達は斯樣にして小さいものではあつたが非常に強固な文學的な團體を形作つてゐた。行先は東京の文科であり、東京へ出たら必ず私達で雜誌を作らうといふ氣持が云はずして釀されてゐた。ところが兔角さういふことは後れ勝ちになるもので、東京へ出て直ぐと思つてゐた發行が半年少しも後れて初號は次の年の一月にやつと
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
梶井 基次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング