、子供たちが東京の學校に來ないうちは子供部屋と藏《くら》がはりにつかつてゐた。
 私の妹は北京に住みつくと、すぐに樟材《くすのき》で櫃をつくらせたといつて、その物置に幾箇もならべてあるのを見せた。好い樟の、一枚板が、とても安く買へるから、これならば何を入れておいても蟲がつかないから、このまま歸る時はもつて歸るのだといつてゐた。事實それは、此方へ歸つて來てから、立派な、とても好い洋服だんす幾箇に化けてゐる。
 私はその時の、妹の生活が、ものを書くものには理想的なので羨ましかつたので、勉強するには北京に住んで、東京へは刺戟を受けに來たいとその後もよく言つた。それより前は、住むには奈良がよからうとか、京都がよいとかいつてゐたが、一足飛びに北京黨になつてしまつた。それほど、細君の樂なところなのだつたのだ。もとよりそれは、中流以上の生活ではあらうけれど、その生活費の安さは、たうてい思ひもよらないことでもあつたからだ。
 私たちは夕方に北京に着いたのだが、靜な晩春の暮色の中で、丁度張作霖の晩年敗戰の時で、市中に戒嚴令がしかれてゐたので、兵隊が手荷物をしきりに改めた。同仁病院々長であつた義弟の關係や
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