北京の生活
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)曲《まが》り角
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
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そのころ、義弟の住居は、東三條胡同といふ、落着いた小路にあつて、名優梅蘭芳の邸とおなじ側にあつたが、前住のふらんす婦人の好みで、多少ふらんす風に改築された支那家屋だつた。
であるからかも知れないが、玄關をはいると、水族館とも箱庭式ともどつちともつかない、噴水と泉水と、花壇と鉢植の一間があつて、夜は花やかな電燈が點くやうになつてゐる。地下室のレストーランなどが眞似てもよい――また、どこかそんな氣もするところがある好みだつた。その隣室が大小二箇の客間になつてゐた。その次に食堂があつた。
二枚折の腰屏風の片つぽが長いやうな全體の建てかたで、庭に面して折れ曲つてゐた。食堂が兩方の曲《まが》り角になつてゐて、書齋、寢室、湯殿、控部屋と、ずつと奧に、すぐに庭へ出られる廣い部屋が二室あつて、義弟の家では、子供たちが東京の學校に來ないうちは子供部屋と藏《くら》がはりにつかつてゐた。
私の妹は北京に住みつくと、すぐに樟材《くすのき》で櫃をつくらせたといつて、その物置に幾箇もならべてあるのを見せた。好い樟の、一枚板が、とても安く買へるから、これならば何を入れておいても蟲がつかないから、このまま歸る時はもつて歸るのだといつてゐた。事實それは、此方へ歸つて來てから、立派な、とても好い洋服だんす幾箇に化けてゐる。
私はその時の、妹の生活が、ものを書くものには理想的なので羨ましかつたので、勉強するには北京に住んで、東京へは刺戟を受けに來たいとその後もよく言つた。それより前は、住むには奈良がよからうとか、京都がよいとかいつてゐたが、一足飛びに北京黨になつてしまつた。それほど、細君の樂なところなのだつたのだ。もとよりそれは、中流以上の生活ではあらうけれど、その生活費の安さは、たうてい思ひもよらないことでもあつたからだ。
私たちは夕方に北京に着いたのだが、靜な晩春の暮色の中で、丁度張作霖の晩年敗戰の時で、市中に戒嚴令がしかれてゐたので、兵隊が手荷物をしきりに改めた。同仁病院々長であつた義弟の關係や
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