くものでない、自分自身すら、心が思うにまかせずかえって反対に逸《そ》れてゆくときのある事を知っている。であるから、推察はどこまでも推察にすぎないゆえ、独断は慎まなければならないと思っている。ことに複雑した心理の、近代人の、しかも気の変りやすい、動きやすい女性の心奥《こころ》の解剖は、とても、不可能であると思っている。
 この鎌子夫人についても、私はその是非を論《あげつ》らうのでもなければ、その心理の解剖者となるのでもない。数奇の運命に弄《もてあそ》ばれた一人の美女を記すだけでよいのであるが、もし筆が不思議な方面へ走ったとすれば、その当時の、彼女へ対するあんまり同情のなかった言説が、何時か私に不満を感じさせていたのかも知れない。
 ともかく此処《ここ》に、「いまわしいことのおこり」となった、ことのはじめにかえって記さなければならない。こうしたことに似た一字をでも書けば、この頃の純文芸の方面では非常な圧迫を受けるということであるが、これは連日公開の新聞紙上に載せられて、知れ渡った事実ゆえ、その災は受けないことであろうと思う。

       二

 鎌子夫人は伯爵|芳川顕正《よしかわあきまさ》氏の四女と生れた人である。すぐ上の姉は大阪の巨豪男爵藤田平太郎氏の夫人になっている。その人の上に二人の姉があって生存しているが、どういう訳でか、その姉《ひと》たちは生家へ帰っていて別に再婚しようともしない。この事は、その家庭が寛《ゆる》やかであって、誰でも父親の鼻息をうかがえば気安くいられるということを語っている。それにも一つは、男子の家督のない家で、長女が外へ出て、末女が家を嗣《つ》いでいるという事に、何処となく間違ったところがあるような気がする。年齢からいっても、其処《そこ》の家で一番若いものに主権があって、おまけに楯《たて》になる夫は入婿であるという事は、何となく落附きがなく、力強いところがないような気がする。家事の命令なども思い思いのものとならざるを得ないように思われる。そうした家庭の主婦である鎌子の夫は、子爵故|曾禰荒助《そねあらすけ》氏の息で、若く華やかな貴公子連の間にも名高い、寛濶派手者《かんかつはでしゃ》で、花柳界に引張り凧《だこ》のお仲間であった。
 鎌子は淑女としての素養はすべて教育された。その上彼女は麗質美貌であり、押出しの立派な伯爵若夫人であった。夫の寛治氏は、彼女も好んで迎えた人であり、五歳になる女の子をさえ儲《もう》けていた。夫に対する愛が、彼女にあれば――子を思う誠があれば――そうした間違いが、どうしてしでかされようかとは、誰人《たれ》も思うところであるし、寛治氏が妻を愛《いと》しむ心が深ければ、そうした欠陥が穿《うが》たれるはずはないとも思うことでもあるが、人間は生ているかぎり――わけても女性は感情に支配されやすい。そうした夫妻の間にすら、こんな事実が起ったのは、何からだと考えなければならない。
 信頼するに足りるその当時の記事を抜くと、最初は『東京朝日新聞』の千葉電話が、
[#ここから2字下げ]
七日午後六時五十五分千葉発本千葉駅行単行機関車に、機関手中村辰次郎、火夫庄司彦太夫乗組み、県立女子師範学校側を進行中、年若き女飛び込み跳飛ばされ重傷を負ひしより、機関手は直に機関車を停《と》めたるに飛込み遅れたる同行の青年は斯《か》くと見るや直に同校の土堤に凭《よ》り蒐《かか》り様《ざま》短刀にて咽喉部を突きて打倒れたり。届出に依り千葉警察署より猪股《いのまた》警部補、刑事、医師出張|検屍《けんし》せるに、女は左頭部に深さ骨膜に達する重傷を負ひ苦悶《くもん》し居り、男は咽喉部の気管を切断し絶息し居たり。女は直様《すぐさま》県立千葉病院に入院せしめたるが生命|覚束《おぼつか》なし。
赤靴を履《は》き頭髪を分けをり年頃二十六、七歳位運転手風の好男子なり、男の黒つぽき外套《がいとう》のかくしと女のお召コートの袂《たもと》には各々遺書一通あり、尚《なお》女のコートの袂には白鞘《しろさや》の短刀を蔵《かく》しあり。
右につき本社は各方面に向つて精探せし結果、婦人は麻布《あざぶ》区宮村町六七正二位勲一等伯爵枢密院副議長芳川顕正氏養子なる子爵曾禰安輔氏の実弟寛治氏の夫人鎌子(廿七)にして長女明子あり、男は同邸の自動車運転手倉持陸助(廿四)なることを突止めたり。
[#ここで字下げ終わり]
と記されている。そして各々の写真は各紙に大きく挿入されていた。それからそれへと手《た》ぐりだした記事がそれに続いていた。
 家の者は一切を伯爵から口止めされたという事で、それについての面接はみんな前警保局長だった岡喜七郎氏が関《あず》かっている。その話によると、
[#ここから2字下げ]
「六日の夜八時頃倉持運転手が部屋で泣きながら酒を飲んでいるので、朋輩《ほうばい》の運転手が何故泣くのだと聞くと、何にも答えずに外出してしまった。朋輩は多分附近の料理店に情婦があるので其処に行ったのであろうと思ったが黙っている訳に行かぬから、今回情死した鎌子夫人の許可を得て置こうと思ってその室《へや》に訪《たず》ねて行って見ると、夫人の姿も見えない。多分御隠居(顕正《よしまさ》伯)の室にでもいるだろうと思ってこの事を家令に告げた。家令は御隠居のところに行って見たが其処にも夫人の姿は見えない。ところへ主人の寛治氏が帰って来たので、鎌子夫人及び運転手のおらぬ事を告げ、邸内を隈《くま》なく探したがとんとわからぬ。すでに夜も遅いことなり、いずれ帰って来るだろうと思ってそのままに寝てしまった。然《しか》るに七日の朝になっても帰らぬので寛治氏も大いにおどろき、この事を友人なる自分に電話をかけ、昨夜来のことを告げるので、自分は『そんな事があるものか』と直に自動車で伯邸に赴《おもむ》いた。前記の次第をきいて、事実の疑うべからざるに驚いた。それで自分は警視庁に行き、以上の事実を打明けて捜索をたのんだ。同時に、千葉において情死の報があった」
[#ここで字下げ終わり]
と言っている。千葉の県立病院長は三輪博士であったが、東京からは帝大外科の近藤博士がわざわざ出むいた。夫の寛治氏も瀕死《ひんし》の彼女の枕辺《まくらべ》にあって、不面目と心のいたみに落涙をかくし得ず、僅《わずか》に訪問の客に、
「余と、余の一族は目下謹慎中にて何とも面目なし」
とその感慨の一部を洩らした。そして一人は息絶え、一人は瀕死であるためにすべての事は秘密に葬りやすかった。この事件の一切を処理する事を依託された岡氏は、絶対の秘密にして、遺書も一応披見したのち焼きすててしまった。
「両方とも誠につまらぬ遺書にて、何らお話するほどの事なし」とはいったが、某氏の談によれば縷々《るる》事情の複雑な関係があからさまにされていたという事である。
 で、彼女たちはどんな風にして家を出てのちを過したかということは、かなり委しく探り出されている。
 それは倉持が自分の部屋で泣きながらお酒を飲み、そして外へ出ていったという夜の十二時すぎのことである。千葉町のある家の門をたたいたのが、何処かで落合った鎌子と陸助とであった。その家はおりから営業を禁止されていたので、田川屋という宿屋へ案内をした。翌朝前の家から迎えがいったので、客の二人は以前の家へ引返して朝飯をすませた。午《ひる》飯には三本のお酒の注文があり、その他に餅菓子の注文もした。名所絵葉書十枚、巻紙封筒をも取寄せて両人はしきりに書面を認《した》ためていた。沈みがちであった二人のうち、わけても女は打沈んでいた。一時頃には女の方は腹痛だといって俯伏《うつぶ》しになって、十銭の振りだし薬を買わせて服《の》んだりした。男の方は女中にむかって、芸者を招《よ》んでくれといってきかなかったが、女の方がしきりに遮《さえぎ》って止めた。午後三時ごろ支払いをすませて、二人は勢いよく袖《そで》をつらねてその家の門口を出た。
 その夜、鎌子を引倒した列車に乗っていた機関手は、その刹那《せつな》の模様を語った。
[#ここから2字下げ]
「私の列車が進んでゆくと、男女は確乎《しっかり》と抱きあい、一つになって蹲《うずく》まっていたところから変だなと思っていると果然|件《くだん》の男女は抱きあったまま線路に飛び込み、あわやと思う間に男女共一緒に跳ねとばされたが、女は倒れたけれども男はあまり負傷もしない様子で、女の上に乗りかかり泣きながらやや高い声で、『貴女一人は殺しません。私も死にますから御安心なすって下さい』と頻《しきり》に女の耳に口をあてて言っていたが、その中多勢の人が騒ぎだしたので、女から離れて女子師範学校の土手のとこに行って喉《のど》を突いたのです」
[#ここで字下げ終わり]
 生命危篤の彼女は、出血の多量であったにもかかわらず命はあることになった。「死んでしまったらよかったろうに」とは、あながち彼女を憎むものばかりが言ったことではなかった。これからの恥多き日を、どうしておくるかということよりも、彼女に命がなかったならば、彼女も倉持も救われ、また夫も親も救われるにと思ったのであった。絶対の恋愛をもつものならば妥協の生活は出来ないであろうし、有夫の身だから罪となるのを悲しんで死のうとしたならば、易《やす》きにつこうとした謗《そし》りはあるとしても、それは醒《さめ》きらぬ婦人の無自覚から来た悲しい錯誤であると言わなければならない。また倉持にしても、それほどまでの真純な愛を持ちながら、どうして夫人を説得するだけの勇気と意志がなかったのであろう。彼女が無自覚であったと共に、倉持はまた意志が薄弱であったのであるまいか。彼女の取るべき道はたった一つあったのである。それは当然死よりも愁《つら》くまた出来にくかったであろうが、正しい取るべき道は、最初倉持との恋愛が萌《きざ》した時に、潔《いさぎよ》く良人《おっと》に打明けるべきであった。夫妻の間に理解と、真の愛情があれば打明けられたと思う。それが出来ずとも、倉持との恋愛が、何物をも犠牲にするほど熾烈《しれつ》なものであったならば、当然伯爵家も伯爵夫人も最初から捨てなければならなかったのだ。そして倉持も極力その事を願わなければならないはずであった。すべてを有《あり》のままにしておいて、倉持を愛していたのならば、鎌子の情操を疑わなければならない。問題は唯この一点だ。
 けれども多く非難の的とされたのは、男女のどちらからが誘惑したかという事と、心中をすることをどちらから言出したかという事とであった。誘惑云々という事は、もの心のつかない童男童女の上ならば知らず、廿四歳の青年はそんなことを聞かれるのさえ侮辱だ。鎌子にしても、単に、男に誘惑されてああなったとすればあんまり単純すぎる。出来てしまってから結果を考えて、顫《ふる》えるような無智な女ではないであろう。そういう事になる前にこそ、死よりも切ない懊悩《おうのう》があったはずである。私はそうだと独りできめてしまうのではないが、どうもこの心中は倉持から言出したものというように思われてしかたがない。無論前にもいう通り二人の恋愛関係がはじめから誤った姑息《こそく》な手段で、糊塗《ごまか》していた事が、因をなしたには違いないが――

 その事についての道学者たちの争いもたいしたものであった。ある人は、
「死んでしまえばなんでもなかったのに」
といったり、彼女の母校であった学習院女学部の主事は、
「今までも他の学校よりは徳育に力を尽していたが、こんな出来ごとがあった以上、この後はなお一層その点を注意したい。ものも間違えば間違うものだ」
というような事を言ったりしたのは、家の自動車もやめてしまおうと、自分の最愛な細君へ警戒をしたという莫迦《ばか》らしさとおなじで、女流のなかでさすがに立派な意見だと頷《うなず》かれたのは、与謝野晶子《よさのあきこ》女史と平塚らいてう氏であった。山川菊栄《やまかわきくえ》女史はどういう風に見られたか、それは残念ながら私は見なかった。
 らいてう氏は、
[#ここから2字下げ]
……それと同時にあらゆる階
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング