とい》その折の一人であった人だとて、残った者が代表して言いうる事は出来得ないであろう。ましてそれを、(そうであろう)を(そうであった)にして、鵜呑《うの》みにしてしまって、冷罵《れいば》するのはあまりの呵責《かしゃく》ではあるまいか。
 そのまた片っぽには、新聞記事を予審調書のようにして、検事のように論じるのもあれば、弁護士以上の熱弁を振《ふる》って弁護するものもあった。小説以上に仕組んで語るものもあれば、口さきで劇《ドラマ》につくりあげて説明するものもある。いずれも揣摩臆測《しまおくそく》のかぎりをつくしてこの問題は長いこと社会の興味を呼んだ。大正六年中の出来ごとで一般の人心に、男女老若を問わず上下を通じて、こうまで注意された出来ごとはなかった。で、相《あい》共に死のうとした二人の人物のうちで、どちらが他人の同情をひいたかといえば、それは自動車の運転手であった倉持陸助《くらもちりくすけ》という青年であった。この男は即死したゆえもあろうし、対手《あいて》よりは身分の低いゆえもあろうが、多くの人から同情された。悪くいうものがあったとすれば、それは「うまくやってたんだなあ」という体《てい》
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