上の責だけだと断定されていた。
 ただここに聞逃《ききのが》すことの出来ないのは、宮内省の法令に精通せる某大官|曰《いわ》くということである。その人ははばかりもなくこう言っている。
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「今回芳川家に起ったような事件に関しては、別に華族懲戒令というものがあって、もしその事件が訓戒すべきものならば宮内大臣の独断をもって、また譴責《けんせき》すべきものならば委員会の決議をへて取扱うことになっている。即ち芳川事件がもし懲戒すべき性質のものならば右の懲戒令によることだろうと思うが、それにしても従来この事件に比するものは華族間に決して例が少なくない。ただこんどはああして世間に知れ渡ったというにすぎぬから、従来の例から推考すると別に懲戒に附するほどのことはあるまいと思う」
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というのである。
 明子《はるこ》氏の説は此処に来て意義あるものとなった。全く鎌子はそうした階級の迷夢を醒《さ》まさせる犠牲になったのである。そしておなじような位置に置かれてある人たちに、たしかに何らかの印象を与え、覚醒をうながしたことはいうまでもない。
 鎌子を生ました老伯爵のその間の心意はどんなであったろう。老後の悲劇である。明治維新のおり赤忠をもって贏《か》ち得た一切の栄誉は、すべてみな空《むな》しくされたものとなった。老後の栄職である枢密院の副議長の席も去らなければならなかった。彼の人は門戸を深く閉じて訪客を謝し、深く深く謹慎していた。そして一切弁解の辞を弄《もてあそ》ばなかった。この老伯のいたましい立場には、いかなものも同情せずにはいられなかった。誰れにもまして怒りも強かったであろうし、また悲しみも深かったであろうが、子の親である人のそうした場合には、明瞭《はっきり》と自分の不明であった事に頷《うなず》かなければならなかったであろう。そしてたしかに心の底には、何となく謝《あやま》りたい気持ち――対社会へではない、鎌子に謝りたい心持ちが湧《わ》いていたに違いないと思われる。それはあからさまに示されていた。
 鎌子の疵《きず》は癒《い》えかけた。その月の廿五日に倉持は郷里栃木県佐野町で、ささやかな葬儀が執行され、身寄りのない彼れの遺骨は、一滴の思いやりのある手向《たむけ》もうけないで土に埋められてしまった事を夢にも知らないで、その事を案じ悩みながらも疵は癒えかけた。健康な肉体が精神のいたみに負けず恢復《かいふく》していった。彼女として、その後をどうしようかと迷わぬ訳にはゆかなかったであろうが、芳川家にとってもそれはかなりの難問題であったに違いない。一日近親の者は寄集《よりあつま》って協議をこらした。そして結果は伯爵家を除籍して別家させなければなるまいという事になった。それから鎌子は世間から憎まれているゆえ、全治退院ということが洩れたならば、どういう暴行にあいもしかねないからというので、退院はごく秘密にし、加養する彼女の住居も、充分世間へ洩れぬことにしなければならないという事に協議はまとまった。
 ある夜二台の自動車は千葉病院へそっと横附けにされた。白い毛布に包みかくされて、自動車へ運びこまれたのは彼女であった。それを見て、直に新聞記者たちの幾台かの自動車も追駈《おいか》けて走ったが、東京へはいると突然、間を遮《さえぎ》る自動車が飛出して来て、目的通りに邪魔を入れてしまった。けれども彼女が青山の実姉の家にはいったという事が知れた。その家では、まるで交通|遮断《しゃだん》とでもいうように表門には駒寄《こまよ》せまでつくって堅く閉じ、通用門をさえ締切ってしまった。それは老伯の昔気質《むかしかたぎ》から出た自ら閉門謹慎の意であったか、それとも世人の乱暴をおそれてであったかは知れなかった。尤《もっと》もそののち下渋谷《しもしぶや》の近くの寮に鎌子が隠れ住むという風説が立つと、物見高い閑人《ひまじん》たちはわざわざ出かけていって、その構えの垣の廻りをうろついていた。何のためにそうするのかは、うろついていた人たちにもわかるまいが、そうした煩わしさは彼女をいつまでも執拗《しつよう》なくらいにゆるさなかった。
 そうなってからの鎌子は、やっぱり病院にいた時通り、すこしも倉持の消息を知らなかったかどうだかは疑問である。とはいえ、もの憂《う》き月日であった事は察しられる。父の老伯は彼女を信仰によって復活させようとした。初夏の六月の上旬、あわれな親心は不幸な娘を伴って、本所《ほんじょ》外手町に天理教の教会をおとずれた。父親の温かい愛は、慈悲と慈愛をもって、幼女を抱いてゆくように保護していった。そんな優しい心持ちの湧《わき》だすのを老伯自身さえ不思議に思ったほどであろう。深い悲しみにあってはじめて知る親と子の融合は、物質に不足のないだけで、心の
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