饑《うえ》をさとらなかった親子の間には、今までには酌《く》めなかったものであったかも知れない。子を信仰に導くために親も天理教の信徒となり帰依することを誓った。
 けれども、それだけで彼女の心に慰安があったか? 絶対に秘密をまもり、彼女の動作については、何一つ外部《そと》へ知らせまいとしても、そう容易《たやす》く意地悪な世人が忘れようとしない。下渋谷宝泉寺内の隠れ家《が》も、
「姦婦《かんぷ》鎌子ここにあり、渋谷町の汚れ立|退《の》け」
と張札《はりふだ》をして、酒屋、魚屋、八百屋連の御用聞《ごようきき》たちが往来のものに交って声高《こわだか》に罵《ののし》りちらして、そこにもいたたまれないようにさせたが、やがてその侘住居《わびずまい》も戸を閉《し》めてしまった。釘《くぎ》づけにされた主なき空家《あきや》の庭には、真紅のダリヤが血の色に咲きみだれて残るばかりであった。
 彼女はやがて鎌倉辺に暑さと人目を避けていると噂されたが、その年の暮に、弱まりきった身を抱《かか》えられて、思出の多い過去の家へと引取られた。彼女は家出をした家へ帰らなければならない運命に遭遇した。除籍された家へ、離別した夫の住む家へと運ばれていった。彼女が神経過敏に陥って、とがもない召使いを叱《しか》りちらし、時々発作的に自殺の気色を見せたということは尤もなことで、夜は十二時をすぎても眠られず、朝は遅いというようなことをいって責めるのは、あまりに普通人の健康なものに比較したばからしさだ。平静な時は読書に一日を費しているが、挙措《きょそ》動作が何処やら異っているので警戒しなくてはならないと見られた。

 一年はたった。鎌子はその後どこか近県の別荘にあって、寛治氏の思いやりのあるはからいのもとに、病後の手あてと、心のいたみの恢復をはかっていると聴いた。そして彼女は羊を飼っているとも聴いた。暖かい土地で、人に顔をあわさず、朝《あした》夕《ゆう》べに讃美歌を口ずさみながら、羊の群をおっているのは、廃残の彼女にはほんに相応《ふさわ》しいことだと思った。が、嘘かまことか、五月のある日の『東京日日新聞』紙面の写真版は、歌舞伎座がえりだという彼女が、自動車へ乗るところの姿をだした。そして疵《きず》あとは綺麗《きれい》にぬぐったように癒《なお》った彼女は、寛治氏と同道にて歌舞伎座の東の高土間《たかどま》に、臆面もなく芝居見物に来ていたという事を報じた。すこしは気咎《きとが》めがするようで、幕間《まくあい》にはうつむきがちにしていたが、見物が「鎌子だ」といって視線をむけても格別恥らいもしなかった。寛治氏はさすがに座に堪えかねて、中ごろから姿を消してしまったが、彼女は取すまして最後まで見物してのち、歓楽につかれた体を自動車で邸へと急がせたというのである。
 またしても世間は湧立った。不埒《ふらち》な女だというさげすみが此処かしこできかれた。
 けれども私はそれは彼女の姉達《きょうだい》の見あやまりではなかろうかと思ってやまないのである。
 そしてまた彼女は、千葉の病院に在院中も、若き助手などを見ると騒ぎまわって見苦しかったと語った看護婦があった。もしも彼女にそうした行為が誠にあったのならば、それはもう病的なもので、医学上、他の見方があるだろう。私は私としての考察を記して見たまでである。
[#地から2字上げ]――大正七年――

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附記 五、六年後に、横浜郊外に由緒《ゆいしょ》ありげに御簾《みす》などさげた小家があった。その家の女主人は隠遁した芳川鎌子で、若い運転手と同棲していると新聞消息子は伝えた。その後、芳川鎌子死すと報じられた時は人々が見おとしたほどささやかな記事だった。
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底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年2月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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