――再び春の日の光を、病院の窓に眺めた彼女の意識にのぼったものは、まず何であったろう。いうまでもない倉持の最後のきわの絶叫でなければならない。彼女は混沌《こんとん》たる状態のおりからも彼れの名を無意識に叫んだが、自分がこの世に生残ったと知ると、心にかかるのは彼れの身の上であった。けれども、彼女の恢復《かいふく》しかけた意識は例によって、血潮の洗礼を受けたあとでも因襲道徳に囚《とら》えられていた。それを明瞭《はっきり》と聞きただす勇気はなくって、いたずらに悶《もだ》え苦しんだ。彼女はおりおり堪《た》え兼《かね》たように、
「帰るのだから自動車を呼べ」
と附添いのものに命じた。
 自動車といえば倉持に密接な関係があるゆえ、それによって彼れの生死いずれかの安否が聞けるものと思ったらしかった。けれども附添っていたのは本邸から番人によこしてある書生だけで、看護婦たちと声をあわせて、よくなれば院長の方から退院を許すと、口止めをされた倉持の安否はすこしも彼女に知らせなかった。彼女がその場合欲したものは、厚き手当でも医薬でもなかった。たった一言《ひとこと》、彼れの安否を聞きさえすれば心は落ちついたのである。それは倉持が約束を変えず、後を追う気で自殺したといえば悲しみもし、気も狂わしく、医薬を尽しても助からなかったかも知れない。けれど、その場合、回復させるばかりが仁であろうか、長い恥辱をあたえてまで助けておくのが情であろうか?
「自動車を持って来い、退院するのだから」
と彼女は叫び、
「まだ御全快になりませんから」
と宥《なだ》めるのがいつもきまった文句であると新聞は伝えた。その悲しい叫びを駄々《だだ》といった。狂わしいほどに気に懸《かか》るものの安否は知れず、やる瀬なき絶叫は神に救いを求める讃美歌となって高唱された。

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おもひいづるも はづかしや
ちちのみもとを はなれきて
あとなきゆめの あとをおひ
むなしきさちを たのしみぬ

ならはぬわざの まきばもり
くさのいほりの おきふしに
ひとのなさけの うすごろも
うき世のかぜぞ 身にはしむ

やれしたもとに おくつゆも
ちちのめぐみを しのばせて
無明のやみは  あけにけり
いざふるさとへ かへりゆかん。
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 新聞紙は、この讃美歌は新約|路加《ルカ》伝第十五章第十一節より第三十二節に亙《わた》り、放蕩児《ほうとうじ》が金を持ち、親や兄を捨て旅行して遊蕩に耽《ふけ》り、悉皆《すっかり》費消し尽して悲惨なる目に遭《あ》い、改心するまでを詠《よ》んだもので、鎌子夫人の身の上に似通う点があるから面白い――と言っている。面白いという言辞はかなしい。
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いざふるさとへかへりゆかん――
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という文句があるとて、彼女はのめのめと、父の邸《やしき》へ帰ってゆこうといってその節を唄《うた》ったのではない。彼女が父と呼んだのは天の父をさしたのである。彼女が唄った故郷は麻布の家ではなくて、霊の故郷、天国なのである。彼女は知っていたのだ。彼女の魂は彼れの霊に呼ばれていることを感じたのだ。

 鎌子は自殺|教唆罪《きょうさざい》だがとある法曹《ほうそう》大家は談じた。教唆は精神的関係、即ち脅迫して承諾させ、口説《くど》いて同意をさせたものを含むのであるゆえ、鎌子がさきに線路に飛込み、倉持がその後を追っているから地位資格上倉持はむしろ殉死したのだ。であるから法律上から見ると一種の脅迫的自殺と見なし、二百二条を適用して、六カ月以上七カ年以下の懲役または禁錮《きんこ》に処罰するのが相当だが、裁判所もこれまで充分に社会的制裁を加えられたものに対し、この上法律上の制裁まで加えまいと思うと述べた。
 同族間ではまた非常な非難で、宮内省ではどう処分するかという議論が沸騰した。華族監督の任にある宮内省では、芳川伯爵家が鎌子に対しどんな処分をとるかと注目していた。その上で、断乎《だんこ》たる処分に出ようとする意嚮《いこう》をほのめかした。やむをえない場合の手段とは、華族令の規程に則《のっと》る、宗秩寮《そうちつりょう》審議会に附して厳重な審議の上、処分法を講じて御裁可を仰ぎ、宮内大臣が施行するというのである。無論軽くてはすむまいとされたが、その前に伯爵家で適当な処置を取れば不問にしようとするのだと伝えられた。けれども、それは寛治氏から離婚をするだけではすまされない。伯爵家から籍を削除《のぞ》けば、そこではじめて平民になるのゆえ自然宮内省は管轄外となるのだとも噂された。
 千葉県警察部長の談では、警察官吏、及《および》警察医の報告によれば合意の心中であった事が明確ゆえ、たとい相手方の一人が仕損じて生存していたとて何らの犯罪も構成しない。ただ道徳
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