から迎えがいったので、客の二人は以前の家へ引返して朝飯をすませた。午《ひる》飯には三本のお酒の注文があり、その他に餅菓子の注文もした。名所絵葉書十枚、巻紙封筒をも取寄せて両人はしきりに書面を認《した》ためていた。沈みがちであった二人のうち、わけても女は打沈んでいた。一時頃には女の方は腹痛だといって俯伏《うつぶ》しになって、十銭の振りだし薬を買わせて服《の》んだりした。男の方は女中にむかって、芸者を招《よ》んでくれといってきかなかったが、女の方がしきりに遮《さえぎ》って止めた。午後三時ごろ支払いをすませて、二人は勢いよく袖《そで》をつらねてその家の門口を出た。
 その夜、鎌子を引倒した列車に乗っていた機関手は、その刹那《せつな》の模様を語った。
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「私の列車が進んでゆくと、男女は確乎《しっかり》と抱きあい、一つになって蹲《うずく》まっていたところから変だなと思っていると果然|件《くだん》の男女は抱きあったまま線路に飛び込み、あわやと思う間に男女共一緒に跳ねとばされたが、女は倒れたけれども男はあまり負傷もしない様子で、女の上に乗りかかり泣きながらやや高い声で、『貴女一人は殺しません。私も死にますから御安心なすって下さい』と頻《しきり》に女の耳に口をあてて言っていたが、その中多勢の人が騒ぎだしたので、女から離れて女子師範学校の土手のとこに行って喉《のど》を突いたのです」
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 生命危篤の彼女は、出血の多量であったにもかかわらず命はあることになった。「死んでしまったらよかったろうに」とは、あながち彼女を憎むものばかりが言ったことではなかった。これからの恥多き日を、どうしておくるかということよりも、彼女に命がなかったならば、彼女も倉持も救われ、また夫も親も救われるにと思ったのであった。絶対の恋愛をもつものならば妥協の生活は出来ないであろうし、有夫の身だから罪となるのを悲しんで死のうとしたならば、易《やす》きにつこうとした謗《そし》りはあるとしても、それは醒《さめ》きらぬ婦人の無自覚から来た悲しい錯誤であると言わなければならない。また倉持にしても、それほどまでの真純な愛を持ちながら、どうして夫人を説得するだけの勇気と意志がなかったのであろう。彼女が無自覚であったと共に、倉持はまた意志が薄弱であったのであるまいか。彼女の取るべき道はたった一つあったのである。それは当然死よりも愁《つら》くまた出来にくかったであろうが、正しい取るべき道は、最初倉持との恋愛が萌《きざ》した時に、潔《いさぎよ》く良人《おっと》に打明けるべきであった。夫妻の間に理解と、真の愛情があれば打明けられたと思う。それが出来ずとも、倉持との恋愛が、何物をも犠牲にするほど熾烈《しれつ》なものであったならば、当然伯爵家も伯爵夫人も最初から捨てなければならなかったのだ。そして倉持も極力その事を願わなければならないはずであった。すべてを有《あり》のままにしておいて、倉持を愛していたのならば、鎌子の情操を疑わなければならない。問題は唯この一点だ。
 けれども多く非難の的とされたのは、男女のどちらからが誘惑したかという事と、心中をすることをどちらから言出したかという事とであった。誘惑云々という事は、もの心のつかない童男童女の上ならば知らず、廿四歳の青年はそんなことを聞かれるのさえ侮辱だ。鎌子にしても、単に、男に誘惑されてああなったとすればあんまり単純すぎる。出来てしまってから結果を考えて、顫《ふる》えるような無智な女ではないであろう。そういう事になる前にこそ、死よりも切ない懊悩《おうのう》があったはずである。私はそうだと独りできめてしまうのではないが、どうもこの心中は倉持から言出したものというように思われてしかたがない。無論前にもいう通り二人の恋愛関係がはじめから誤った姑息《こそく》な手段で、糊塗《ごまか》していた事が、因をなしたには違いないが――

 その事についての道学者たちの争いもたいしたものであった。ある人は、
「死んでしまえばなんでもなかったのに」
といったり、彼女の母校であった学習院女学部の主事は、
「今までも他の学校よりは徳育に力を尽していたが、こんな出来ごとがあった以上、この後はなお一層その点を注意したい。ものも間違えば間違うものだ」
というような事を言ったりしたのは、家の自動車もやめてしまおうと、自分の最愛な細君へ警戒をしたという莫迦《ばか》らしさとおなじで、女流のなかでさすがに立派な意見だと頷《うなず》かれたのは、与謝野晶子《よさのあきこ》女史と平塚らいてう氏であった。山川菊栄《やまかわきくえ》女史はどういう風に見られたか、それは残念ながら私は見なかった。
 らいてう氏は、
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……それと同時にあらゆる階
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