は、彼女も好んで迎えた人であり、五歳になる女の子をさえ儲《もう》けていた。夫に対する愛が、彼女にあれば――子を思う誠があれば――そうした間違いが、どうしてしでかされようかとは、誰人《たれ》も思うところであるし、寛治氏が妻を愛《いと》しむ心が深ければ、そうした欠陥が穿《うが》たれるはずはないとも思うことでもあるが、人間は生ているかぎり――わけても女性は感情に支配されやすい。そうした夫妻の間にすら、こんな事実が起ったのは、何からだと考えなければならない。
 信頼するに足りるその当時の記事を抜くと、最初は『東京朝日新聞』の千葉電話が、
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七日午後六時五十五分千葉発本千葉駅行単行機関車に、機関手中村辰次郎、火夫庄司彦太夫乗組み、県立女子師範学校側を進行中、年若き女飛び込み跳飛ばされ重傷を負ひしより、機関手は直に機関車を停《と》めたるに飛込み遅れたる同行の青年は斯《か》くと見るや直に同校の土堤に凭《よ》り蒐《かか》り様《ざま》短刀にて咽喉部を突きて打倒れたり。届出に依り千葉警察署より猪股《いのまた》警部補、刑事、医師出張|検屍《けんし》せるに、女は左頭部に深さ骨膜に達する重傷を負ひ苦悶《くもん》し居り、男は咽喉部の気管を切断し絶息し居たり。女は直様《すぐさま》県立千葉病院に入院せしめたるが生命|覚束《おぼつか》なし。
赤靴を履《は》き頭髪を分けをり年頃二十六、七歳位運転手風の好男子なり、男の黒つぽき外套《がいとう》のかくしと女のお召コートの袂《たもと》には各々遺書一通あり、尚《なお》女のコートの袂には白鞘《しろさや》の短刀を蔵《かく》しあり。
右につき本社は各方面に向つて精探せし結果、婦人は麻布《あざぶ》区宮村町六七正二位勲一等伯爵枢密院副議長芳川顕正氏養子なる子爵曾禰安輔氏の実弟寛治氏の夫人鎌子(廿七)にして長女明子あり、男は同邸の自動車運転手倉持陸助(廿四)なることを突止めたり。
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と記されている。そして各々の写真は各紙に大きく挿入されていた。それからそれへと手《た》ぐりだした記事がそれに続いていた。
 家の者は一切を伯爵から口止めされたという事で、それについての面接はみんな前警保局長だった岡喜七郎氏が関《あず》かっている。その話によると、
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「六日の夜八時頃倉持運転手が部屋で泣きながら酒を飲んでいるので、朋輩《ほうばい》の運転手が何故泣くのだと聞くと、何にも答えずに外出してしまった。朋輩は多分附近の料理店に情婦があるので其処に行ったのであろうと思ったが黙っている訳に行かぬから、今回情死した鎌子夫人の許可を得て置こうと思ってその室《へや》に訪《たず》ねて行って見ると、夫人の姿も見えない。多分御隠居(顕正《よしまさ》伯)の室にでもいるだろうと思ってこの事を家令に告げた。家令は御隠居のところに行って見たが其処にも夫人の姿は見えない。ところへ主人の寛治氏が帰って来たので、鎌子夫人及び運転手のおらぬ事を告げ、邸内を隈《くま》なく探したがとんとわからぬ。すでに夜も遅いことなり、いずれ帰って来るだろうと思ってそのままに寝てしまった。然《しか》るに七日の朝になっても帰らぬので寛治氏も大いにおどろき、この事を友人なる自分に電話をかけ、昨夜来のことを告げるので、自分は『そんな事があるものか』と直に自動車で伯邸に赴《おもむ》いた。前記の次第をきいて、事実の疑うべからざるに驚いた。それで自分は警視庁に行き、以上の事実を打明けて捜索をたのんだ。同時に、千葉において情死の報があった」
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と言っている。千葉の県立病院長は三輪博士であったが、東京からは帝大外科の近藤博士がわざわざ出むいた。夫の寛治氏も瀕死《ひんし》の彼女の枕辺《まくらべ》にあって、不面目と心のいたみに落涙をかくし得ず、僅《わずか》に訪問の客に、
「余と、余の一族は目下謹慎中にて何とも面目なし」
とその感慨の一部を洩らした。そして一人は息絶え、一人は瀕死であるためにすべての事は秘密に葬りやすかった。この事件の一切を処理する事を依託された岡氏は、絶対の秘密にして、遺書も一応披見したのち焼きすててしまった。
「両方とも誠につまらぬ遺書にて、何らお話するほどの事なし」とはいったが、某氏の談によれば縷々《るる》事情の複雑な関係があからさまにされていたという事である。
 で、彼女たちはどんな風にして家を出てのちを過したかということは、かなり委しく探り出されている。
 それは倉持が自分の部屋で泣きながらお酒を飲み、そして外へ出ていったという夜の十二時すぎのことである。千葉町のある家の門をたたいたのが、何処かで落合った鎌子と陸助とであった。その家はおりから営業を禁止されていたので、田川屋という宿屋へ案内をした。翌朝前の家
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