備が講ぜられた。幾台かの自動車はそのために空《むな》しく幾日かを立番をして暮したほどである。さあ! という時には、四《よ》つ街道《かいどう》あたりの畷路《なわてみち》は、自動車の爆音が相続き入乱れてヘビーの出しくらをした。そして彼女は広い東京にも身の置どころもないように噂された。
その事実! その事実は私もなんにも知らない。やっぱり新聞紙によって知っただけにしか過ぎない。けれどもそれだけで彼女の一生を片付てしまおうとするのはあんまり残酷ではあるまいか? 何故とならば、誰人《だれ》に聴いても彼女自身の口から出た、その事件に対しての告白は聴いていない。まして死んでしまった倉持陸助の心持ちは猶更《なおさら》分りようがない。その上に、どう感情をおしかくそうとし、また出来るだけそれまでになる動機の径路|顛末《てんまつ》を避けて書いたとしても、死際《しにぎわ》に残した書置きには、何か心の中の苦悶《くもん》を洩らしてない事はあるまいと思うが、その書置きをすら、二人のを二人のとも、或る人が見ただけで早急に火中してしまったと伝えられているから(事実はそうでないかも知れない。すくなくも、近親の間にだけは、披露されたと見るが当然の事かも知れないが)真の事情というものは五里霧中《ごりむちゅう》のなかにあるといってもよい。「彼れらは真に恋愛を解していたか?」ということも出来れば「何があるものか出来心だ」と曲解することも出来るし「いえ、そんな事はすこしもなかったのだ。それこそ他に入組んだ訳があって、結果があんなふうになってしまったのだ。」と打消すことも出来ないとはいわれない。けれども彼女の周囲の人たちは驚愕《きょうがく》のあまり狼狽《あわて》てしまって、目の前に展開された恥辱に顫《ふる》い怒って、彼女から何も知り得ぬさきに、彼女を許すべからざるもののように述《のべ》立ててしまった。彼女をかばってやらなければならない者すら身の潔白を表わすに急で、強く厳しく、彼女を詰責《きっせき》するようにさえ見えた。
私は知らないことを、分明《はっきり》と言うだけの勇気は持っていない。またその代りに、独断で彼女を悪い女としてしまうことも忍び得ない。私は何時《いつ》でも思う事であるが、人間はその人自身でなければ、なんにも分らない。ある点までの理解と、あるところまでの心の交渉はあるが、すべてが自分の考え通りにゆくものでない、自分自身すら、心が思うにまかせずかえって反対に逸《そ》れてゆくときのある事を知っている。であるから、推察はどこまでも推察にすぎないゆえ、独断は慎まなければならないと思っている。ことに複雑した心理の、近代人の、しかも気の変りやすい、動きやすい女性の心奥《こころ》の解剖は、とても、不可能であると思っている。
この鎌子夫人についても、私はその是非を論《あげつ》らうのでもなければ、その心理の解剖者となるのでもない。数奇の運命に弄《もてあそ》ばれた一人の美女を記すだけでよいのであるが、もし筆が不思議な方面へ走ったとすれば、その当時の、彼女へ対するあんまり同情のなかった言説が、何時か私に不満を感じさせていたのかも知れない。
ともかく此処《ここ》に、「いまわしいことのおこり」となった、ことのはじめにかえって記さなければならない。こうしたことに似た一字をでも書けば、この頃の純文芸の方面では非常な圧迫を受けるということであるが、これは連日公開の新聞紙上に載せられて、知れ渡った事実ゆえ、その災は受けないことであろうと思う。
二
鎌子夫人は伯爵|芳川顕正《よしかわあきまさ》氏の四女と生れた人である。すぐ上の姉は大阪の巨豪男爵藤田平太郎氏の夫人になっている。その人の上に二人の姉があって生存しているが、どういう訳でか、その姉《ひと》たちは生家へ帰っていて別に再婚しようともしない。この事は、その家庭が寛《ゆる》やかであって、誰でも父親の鼻息をうかがえば気安くいられるということを語っている。それにも一つは、男子の家督のない家で、長女が外へ出て、末女が家を嗣《つ》いでいるという事に、何処となく間違ったところがあるような気がする。年齢からいっても、其処《そこ》の家で一番若いものに主権があって、おまけに楯《たて》になる夫は入婿であるという事は、何となく落附きがなく、力強いところがないような気がする。家事の命令なども思い思いのものとならざるを得ないように思われる。そうした家庭の主婦である鎌子の夫は、子爵故|曾禰荒助《そねあらすけ》氏の息で、若く華やかな貴公子連の間にも名高い、寛濶派手者《かんかつはでしゃ》で、花柳界に引張り凧《だこ》のお仲間であった。
鎌子は淑女としての素養はすべて教育された。その上彼女は麗質美貌であり、押出しの立派な伯爵若夫人であった。夫の寛治氏
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