級の中で最も因襲と伝統との尊重され、旧思想、旧道徳が今もなお頑固《がんこ》に根を張って、人間本来の真情は生命なき形式のもとに押し込められている上流貴族の家庭において、偶々《たまたま》こういう事件が起ったということは非常に意味深いことで、私はむしろ彼ら頑迷なる上流社会の人々をして、その生活――殊《こと》に彼らの家庭生活の上に反省せしめ、かくして彼らをして覚醒《めざめ》しめる一つの機会を与えたものとして痛快にさえ感じております。全く芳川家はこの意味で、他の多くの貴族の家庭のために犠牲になったものだとも言えるでしょう。
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晶子氏のは、
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……しかし夫人が折角《せっかく》その肯定するところまで乗りだしながら、愛の肯定は即ち情死であるというより以上の思案を見出《みいだ》されなかったことは何より残念な、腑甲斐《ふがい》ないことでした。何故ならこれは私には夫人が自分のしていることに対して明かな自覚を有《も》っていなかったこと、またそれを敢《あ》えてするだけの実力をも有《も》っていなかったことを証明するものだとしか思われないからであります。もし夫人の行為が今少し意識的になされたものであったなら、夫人は旧《ふる》い日本の婦人たちがこれまで少し行き詰《づま》るといつもすぐ決行したような安易な死を選ばずとも、もっと力強い積極的な態度をもって、愛による新しい生活を創造することが出来たでありましょう。それは勿論非常な困難苦痛を予想しなければならないことで、そこに並々ならぬ勇気と忍耐と力とを必要とすることはいうまでもないことですけれど、しかも全然不可能なことではなかったと私は信じます。しかし醒《さ》めたものに望むような徹底を、因襲をもって十重二十重《とえはたえ》に縛られた貴族の家庭に多くの愚かな召使たちにかしずかれながら育った夫人に、そしてあの空疎な今日の女学校の形式的な教育より受けていない夫人に期待するのは、するものの方が無理なのでありましょう。
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と説破している。つまりは上流社会の頑迷な旧式な思想から来た子女に対する結婚観念の誤りだといい、華美ごのみであったというのは本性の虚栄を意味するのではなく、むしろ生活の空虚を、精神的の教養をあまり受けていない今日の日本婦人の常として、ことに物質的に何の不自由もない身分として、ごまかそうと努めたのではあるまいか。家出のその夜まで良人《おっと》の寝床をとったり、寝巻をあたためたりして行ったのは、その関係がどこまでも形式的な虚偽的なもので僅《わずか》に保たれていたのだという見地から、夫人にはたとい夫があり子供があったとしてもまだ一度も愛の満足を得ていなかったという意味で、結婚したことのない婦人ともいえると説き、彼女の満《みた》されなかったもの、しかも外部の種々な圧迫のために抑制することを余儀なくされていた愛の要求が、純な愛情と若い燃えやすい情熱との所有主であるものに向いて動いていったことは自然の心理ではないか、赤裸《せきら》な人間の愛の真実の前に、他の一切を忘れて有頂天《うちょうてん》になったとしても無理もなく、論理的の立場から見ても、その結婚が全然第三者の意志によって強制されたものであるから、厳密にいえば夫人はその結婚に対して責任をもっていないのだ。その方法さえ誤らなければ、同時にそれを実行するだけの実力を備えていれば、出立点からして間違っていた結婚をただ単に継続することによって生きながら死者の生活を送るよりも、それを破壊する方がどれだけ論理的であるか知れないと言われた。
そして明子《はるこ》氏はまたこう言っている。
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……夫人がその地位も名誉も、子供に対する愛も否その生命までも犠牲にして肯定しようとした愛は、世間の人たちが言うような単なる劣情のためではなく、夫人の現実の生活よりももっと真実な、もっと純な、もっと高い、そしてもっと美しい情操の世界に対する憧《あこが》れであったのだろうと思います。またこの愛は夫人の生涯における最初の経験であったと共に、夫人の現在の生活の中のただ一つの真実であったのだろうと思います。とはいえ夫人とてもいよいよ愛を肯定するまでには、色々な内心の争闘があったことでありましょう。……それにもかかわらずやはり最後には一切の虚偽を否定して彼女の世界のただ一つの真実を肯定したのでありましょう。夫人の教育は私がここで述べたようなはっきりとした意識を一々与えてはいなかったとしても、夫人の本能が夫人を真実なものにつかせたのであろうと思います
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とて、話が逸《そ》れるが、いつも男女間の愛とさえ言えば、すぐ劣情とか痴情とか言って暗々の裡《うち》に非難の声と共に葬り去ろうとする習慣を不快に
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