とい》その折の一人であった人だとて、残った者が代表して言いうる事は出来得ないであろう。ましてそれを、(そうであろう)を(そうであった)にして、鵜呑《うの》みにしてしまって、冷罵《れいば》するのはあまりの呵責《かしゃく》ではあるまいか。
 そのまた片っぽには、新聞記事を予審調書のようにして、検事のように論じるのもあれば、弁護士以上の熱弁を振《ふる》って弁護するものもあった。小説以上に仕組んで語るものもあれば、口さきで劇《ドラマ》につくりあげて説明するものもある。いずれも揣摩臆測《しまおくそく》のかぎりをつくしてこの問題は長いこと社会の興味を呼んだ。大正六年中の出来ごとで一般の人心に、男女老若を問わず上下を通じて、こうまで注意された出来ごとはなかった。で、相《あい》共に死のうとした二人の人物のうちで、どちらが他人の同情をひいたかといえば、それは自動車の運転手であった倉持陸助《くらもちりくすけ》という青年であった。この男は即死したゆえもあろうし、対手《あいて》よりは身分の低いゆえもあろうが、多くの人から同情された。悪くいうものがあったとすれば、それは「うまくやってたんだなあ」という体《てい》の、卑しい心持ちをもつ者ぐらいであった。
 では、女性の方に対しては、どういう解釈をもったかというに、世人は侮蔑と反感を持って、唾《つば》も吐きかけかねまじき見幕《けんまく》であった。因習にとらわれ、不遇に泣いているような細君たちまでも、無智から来る、他人の欠点《あら》を罵《ののし》れば我身が高くでもなるような眺めかたで、彼女を不倫呼ばわりをして、そういう女のあったのを、女性全体の恥辱でもあるように言ってやまなかった。けれどもそういう女たちのなかには、卑屈な服従も美徳であると思い違え、恋愛は絶対に罪悪だと信じられているからでもある。立派な紳士でさえ「沙汰《さた》のかぎりだ」という言葉で眉根《まゆね》をひそめただけで、彼女に対する一切を取片附けてしまったのが多かった。実際世間はその「沙汰のかぎり」という言葉をその事件に対する評語とした。それは一つは、彼女の身分が男の方とは違って、名門であり富有であったから、一種妙な、日頃の鬱憤《うっぷん》をはらしたような、不思議な反感と侮蔑をもって、嘲弄的だった。そしてその余憤は、彼女が倉持を殺してでもしまったようにさえ憎むのであった。もしそれが伯爵家の
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