》などの下劣な芸人は白扇で額をたたいて卑狼《ひわい》な言葉を弄したりした。堕落した学生たちは「運転手になるのだっけ」というような言辞《ことば》をもてあそんで恥なかった。それよりも甚《はなはだ》しいのは、我身の魂でなければならないはずの妻にむかって、女性はみなかくあるものだというような、奇矯な言葉を費やして、自らの品性までも低めてかえり見ないものさえあった。いうまでもなく、その事件は、爪《つま》はじきをするのも余儀ない人妻の「心中事件」である。けれどもそれほど不倫の行為と厭《い》む人たちが、男女|相殺《そうさい》の恋愛の苦悩を述べ、歎き訴えるものには、同情を寄せるのはどうしたものだろう。浄るりに唄われ、劇化され、小説となってその道程《みちすじ》を語る時には納得し、正しく批評し、涙をもおしまない人たちが、何故《なぜ》現実のものに触れるとそうまで冷酷になるのであろう。それはいうまでもなく、芸術の高い価値はそこにあるとしても、私が不思議でならないことは、昨日あった事柄を報道するにあわせて、かくもあろうかとの推測を、その周囲からまとめあわせて、早速に初号活字にあてはめた、新聞記者の敏腕に信頼するのはよいが、あんまり引込まれすぎてしまって――それは全く、よくもこう探りだされたものであると思うほど明細で、一事一物もそのことに関係のあるものについては、洩《も》れなく活字にされるが、けれども、それは表面だけの事実ではなかろうか。すくなくも事の真相、死のうとした二人よりほかに知らない秘密は全くの無言だ。その一人は絶息し、その一人は死の手から、ほんのこの世へ取帰《とりもど》されたというだけの、生命《いのち》のほども覚束《おぼつか》ない重傷に呻吟《しんぎん》しているおり、その真相が知り得られようわけがない。こう認めた、たしかにこうだと、力《りき》んで証明するものがあるとしたとても、それすら、二人の心からは門外漢である。そう見えたとしても、そうであったかどうだかさえ疑問であるのに、ましてや、その死に対する二人の心のうちにも、どんな別々の考えがあったかも測り知れぬではあるまいか。瀕死《ひんし》の女と、已《すで》に死んでしまった男との魂が、その瞬間にも合致していたかいなかったか、それすらももう片方の者が亡《なく》なってしまった上は、たしかめる事さえ出来はしない。ああであったろうというのは、縦《た
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