は、精神的の苦痛はあっても、いわゆる我儘な生活が出来たのだ。こんどは、精神的幸福はあっても、我儘な生活が出来るわけがないではないかといいたかった。ほんとの、生きた生活に直面するのに――生きた生活とは、そんな生優《なまやさ》しいものではない。
長男|香織《かおり》さんは生れた。生れる子供の籍だけは、こちらへほしいとは伝右衛門氏の願いだった。柳原家で拒んだのだという。生れた子のことで、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは姿をかくさなければならなかった。わたしは子供を離さずに転々していた※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんを、あんなに好いたことはなかった。昨日は下総《しもうさ》に、明日《あす》は京都の尼寺にと、行衛《ゆくえ》のさだまらないのを、はらはらして遠く見ていた。あとでの話では、かえってその時分は経済的に楽だったのだということで、何処かしらから物質は乏しくなく届いていた。愁《つら》かったのは宮崎家の人となってから、馴《な》れぬ上に、幼児は二人になり、竜介氏は喀血《かくけつ》がつづいて――ただ一人のたよりの人は喀血がつづく容体で――その時の心持ちはと、あるとき、語りながら※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは面《おもて》をふせた。
※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは働きだした。達者《たっしゃ》に書いた。長編小説でもなんでも書いた。選挙運動には銀座の街頭にたって、短冊《たんざく》を書いて売った。家庭には荒くれた男の人たちも多くいるし、廃娼《はいしょう》したい妓《ひと》たちも飛込んできた。そのなかで一ぱいに立ち働らきもする。かつての溜息《ためいき》は、栄耀《えよう》の餅《もち》の皮だと悟りもした。
いつわらぬ心境を歌にきこうと、最近、以前のと近ごろとの歌を自選してくださいとおたのみしたらば、こんなのが来た。
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筑紫のころ
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われはここに神はいづこにましますや星のまたたきさびしき夜なり
和田津海《わだつみ》の沖に火もゆる火の国にわれあり誰《た》そや思はれ人は
われなくばわが世もあらじ人もあらじまして身をやく思ひもあらじ
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その後《ご》
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思ひきや月も流転《るてん》のかげぞかしわがこし方《かた》に何をなげかむ
かへりおそきわれを待ちかね寝《いね》し子の枕辺《まくらべ》におく小さき包
子らはまだ起きて待つやと生垣《いけがき》の間《あい》よりのぞく我家のあかり
子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月
ああけふも嬉しやかくて生《いき》の身のわがふみてたつ大地はめぐる
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なんという落附いた境地だろう。この安心立命の地を、武子さんはどう眺めたろう。おおそういえば、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは面白い話をしたことがある。武子さんが九州へゆかれたとき、伊藤伝右衛門氏は、筑紫の女王のところへ、本願寺の生菩薩《いきぼさつ》さまが来られるときいて有頂天《うちょうてん》になり、座ぶとんは揃《そろ》えて、緞子《どんす》、夜具類はちりめん、襖《ふすま》をはりかえさせ、調度は何もかも新しく、善つくし、美を尽さねばならぬときめた。それはおなじ九州のある豪家へ武子さんが招《よ》ばれた時には、何千円かを差上げて来ていただいたというのに、我家《わがや》へは無償でこられるということより何より、それほどの人にわが成金《なりきん》ぶりと、何処にも負けない豪奢《ごうしゃ》ぶりを見せなければおさまらないのだった。それをふと、
本願寺さまだってお手|許《もと》が――武子さんはそんなにおごってはいません、といってしまったらば、急に見下げて、何もかも新しい調度は取消しにして、何もさせないので困ってしまったということだ。
それが、何もかもを語っているとおもう。出来ない辛抱は、今の道にくるまでの、新らしい生活にもあったかもしれない。けれど、澄みたる月は暴風雨《あらし》のあとにこそ来る。あらしはすぎた。※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんのこしかたも大きな暴風雨《あらし》だった。
[#地から2字上げ]――昭和十年九月十七日――
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※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんの生母《おかあ》さんのことも、このごろわかったが、もうお墓の下へはいっていて、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんは墓参りをしただけで、なんにも言えなかったのだ。若くて死んだお母さんは、柳橋でお良《りょう》さんと名乗り、左褄《ひだりづま》をとった人だった。姉さんは吉原芸妓の名妓だったが、その老女は、※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子さんを姪《めい》だと
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