広さでも、以前の有明楼の、四分の一の構えだということである。
此処に若いころは吉原の鴇鳥花魁《におとりおいらん》であって、田之助と浮名を流し、互いにせかれて、逢われぬ雪の日、他の客の脱捨《ぬぎす》てた衣服大小を、櫺子外《れんじそと》に待っている男のところへともたせてやって、上にはおらせ、やっと引き入《いれ》させたという情話をもち、待合「気楽の女将」として、花柳界にピリリとさせたお金《きん》の名も、洩《もら》すことは出来まい。この女も、明治時代の裏面の情史、暗黒史をかくには必ず出て来なければならない女であった。
清元《きよもと》お葉《よう》は名人|太兵衛《たへえ》の娘で、ただに清元節の名人で、夫|延寿太夫《えんじゅだゆう》を引立て、養子延寿太夫を薫陶したばかりでなく、彼女も忘れてならない一人である。京都老妓|中西君尾《なかにしきみお》は、その晩年こそ、貰いあつめた黄金を、円き塊《かたまり》にして床《とこ》に安置したような、利殖倹約な京都女にすぎないように見えたが、維新前の国事艱難《こくじかんなん》なおりには、憂国の志士を助けて、義侠を知られたものである。井上侯がまだ聞太《もんた》といった侍のころ深く相愛して、彼女の魂として井上氏の懐に預けておいた手鏡――青銅の――ために、井上氏は危く凶刃《きょうじん》をまぬかれたこともあった。彼女は桂小五郎の幾松《いくまつ》――木戸氏夫人となった――とともに、勤王党の京都女を代表する美人の幾人かのうちである。
歌人|松《まつ》の門《と》三艸子《みさこ》も数奇な運命をもっていた。八十歳近く、半身不随になって、妹の陋屋《ろうおく》でみまかった。その年まで、不思議と弟子をもっていて人に忘れられなかった女である。その経歴が芸妓となったり、妾となったりした仇者《あだもの》であったために、多くそうした仲間の、打解けやすい気易《きやす》さから、花柳界から弟子が集った。彼女は顔の通りに手跡《しゅせき》も美しかった。彼女の絶筆となったのはたつみや[#「たつみや」に傍点]の襖《ふすま》のちらし書であろう。その辰巳屋《たつみや》のお雛《ひな》さんも神田で生れて、吉原の引手茶屋|桐佐《きりさ》の養女となり、日本橋区|中洲《なかす》の旗亭辰巳屋おひなとなり、豪極《ごうき》にきこえた時の顕官山田○○伯を掴《つか》み、一転|竹柏園《ちくはくえん》の女歌人となり、バイブルに親しむ聖徒となり、再転、川上|貞奴《さだやっこ》の「女優養成所」の監督となって、劇術研究に渡米し、米国ボストンで客死したとき、財産の全部ともいうほどを、昔日の恋人に残した佳話の持主で、書残されない女である。
三艸子《みさこ》の妹もうつくしい人であったが、尾上《おのえ》いろともいい、荻野八重桐《おぎのやえぎり》とも名乗って年をとってからも、踊の師匠をして、本所のはずれにしがない暮しをしていた。この姉妹が盛りのころは、深川の芸者で姉は小川屋の小三《こさん》といい、または八丁堀|櫓下《やぐらした》の芸者となり、そのほかさまざまの生活をして、好き自由な日を暮しながら歌人としても相当に認められ、井上文雄《いのうえふみお》から松《まつ》の門《と》の名を許され、文人墨客の間を縫うて、彼女の名は喧伝《けんでん》されたのであった。その頃は芸者が意気なつくりをよろこんで、素足《すあし》の心意気の時分に、彼女は厚化粧《あつげしょう》で、派手やかな、人目を驚かす扮飾をしていた。山内侯に見染められたのも、水戸の武田耕雲斎《たけだこううんさい》に思込まれて、隅田川の舟へ連れ出して白刃《はくじん》をぬいて挑《いど》まれたのも、みな彼女の若き日の夢のあとである。彼女たちは幕府のころ、上野の宮の御用達をつとめた家の愛娘であった。下谷《したや》一番の伊達者《だてしゃ》――その唄は彼女の娘時代にあてはめる事が出来る。店が零落してから、ある大名の妾となったともいうが、いかに成行《なりゆ》こうかも知らぬ娘に、天から与えられた美貌と才能は何よりもの恵みであった。彼女は才能によって身をたてようとした。そして八丁堀|茅場町《かやばちょう》の国文の大家、井上文雄の内弟子《うちでし》になった。彼女たちは内弟子という、また他のものは妾だともいう。しかし妾というのは、その頃はまだ濁りにそまない、あまり美しすぎる娘時代であったので、とかく美貌のものがうける妬《ねた》みであったろうと思われるが、後にはあまり素行の方では評判がよくなかった。
四
我国女流教育家の泰斗《たいと》としての下田歌子女史は、別の機会に残して夙《つと》に后の宮の御見出しにあずかり、歌子の名を御下命になったのは女史の十六歳の時だというが、総角《あげまき》のころから国漢文をよくして父君を驚かせた才女である。中年の女盛りには美人としての評が高く、洋行中にも伊藤公爵との艶名艶罪が囂《かまびす》しかった。古い頃の自由党副総理|中島信行《なかじまのぶゆき》男の夫人|湘煙《しょうえん》女史は、長く肺患のため大磯にかくれすんで、世の耳目《じもく》に遠ざかり、信行男にもおくれて死なれたために、あまりその晩年は知られなかったが、彼女は京都に生れ、岸田俊子といった。年少のころ宮中に召された才媛の一人で、ことに美貌な女であった。この女《ひと》は覇気《はき》あるために長く宮中におられず、宮内を出ると民権自由を絶叫し、自由党にはいって女政治家となり、盛んに各地を遊説《ゆうぜい》し、チャーミングな姿体と、熱烈な男女同権、女権拡張の説をもち、十七、八の花の盛りの令嬢が、島田髷《しまだまげ》で、黄八丈《きはちじょう》の振袖で演壇にたって自由党の箱入り娘とよばれた。さびしい晩年には小説に筆を染められようとしたが、それも病のためにはかばかしからず、母堂に看《みと》られてこの世を去った。
女性によって開拓された宗教――売僧俗僧《まいすぞくそう》の多くが仮面をかぶりきれなかった時において、女流に一派の始祖を出したのは、天理教といわず大本教《おおもときょう》といわず、いずれにしても異なる事であった。その中で皇族の身をもって始終精神堅固に、仏教によって民心をなごめられた村雲尼公《むらくもにこう》は、玉を磨いたような貌容《おかお》であった。温和と、慈悲と、清麗《せいれい》とは、似るものもなく典雅玲瓏《てんがれいろう》として見受けられた。紫の衣に、菊花を金糸に縫いたる緋の輪袈裟《わけさ》、御よそおいのととのうたあでやかさは、その頃美しいものの譬《たと》えにひいた福助――中村歌右衛門の若盛り――と、松島屋――現今の片岡我童《かたおかがどう》の父で人気のあった美貌《びぼう》の立役《たちやく》――を一緒にしたようなお貌《かお》だとひそかにいいあっていたのを聞覚えている。また、予言者と称した「神生教壇《しんせいきょうだん》」の宮崎虎之助氏夫人光子は、上野公園の樹下石上《じゅかせきじょう》を講壇として、路傍の群集に説教し、死に至るまで道のために尽し、諸国を伝道し廻り、迷える者に福音をもたらしていたが、病い重しと知るや一層活動をつづけてついに終りを早うした。その遺骨は青森県の十和田湖畔の自然岩の下に葬られている。強い信仰と理性とに引きしまった彼女の顔容は、おごそかなほど美しかった。彼女は夫と並んで、その背には一人子の照子を背負っていた。そしていつも貧しい人の群れにまじって歩いていた。ある時は月島の長屋住居をし、ある時は一膳めしやに一食をとっていた。栗色の大理石《マーブル》で彫ったようなのが彼女であった。
宗教家ではないが、愛国婦人会の建設者|奥村五百子《おくむらいおこ》も立派な容貌をもっていた。彼女が会を設立した意味は今日ほど無意義なものではなかった。彼女は幼いころから愛国の士と交わっていたので、彼女の血は愛国の熱に燃えていたのである。彼女は尋常一様の家婦としてはすごされないほど骨がありすぎた。彼女は筑紫《つくし》の千代の松原近き寺院の娘に生れたが、父は近衛公の血をひいていて、父兄ともに愛国の士であったゆえ、彼女も幼時から女らしいことを好まず、危い使いなどをしたりした。しかし一たん彼女は夫を迎えると、貞淑温良な、忠実な妻であった。彼女の夫は煎茶《せんちゃ》を売りにゆくに河を渡って、あやまって売ものを濡《ぬら》してしまうと、山の中にはいって終日、茶を乾《ほ》しながら書籍を読みふけっていて、やくにたたなくなった茶がらを背負って、一銭もなしで家に帰って来たりした。彼女は四人の子供を抱えて、そうした夫につかえるために貧苦をなめつくした。ある時は行商となり、ある時は車をおしてものを商《あきな》い、ある時は夫の郷里にゆく旅費がなくて、門附《かどづ》けをしながら三味線をひいて歩いたこともあった。晩年にやや志望《こころざし》を遂げるようになっても、すこしも心の紐《ひも》はゆるめず、朝鮮に、支那に、出征兵士をねぎらって、肺患の重《おも》るのを知りながら、薬瓶をさげて往来していた。
五
高橋おでんも、蝮《まむし》のお政も、偶々《たまたま》悪い素質をうけて生れて来たが、彼女たちもまた美人であった。おでんもお政も悪が嵩《こう》じて、盗みから人殺しまでする羽目になった。それにくらべては、花井お梅は思いがけなく人を殺してしまったので、獄裡《ごくり》に長くつながれたとはいえ、それを囚人あつかいにし、出獄してから後も、囚人であった事を売物|見世物《みせもの》のようにして、舞台にさらしたり、寄席《よせ》に出したりしたのはあんまり無惨《むざん》すぎる。社会は冷酷すぎる。彼女は新橋で売れた芸者であったが、日本橋区の浜町河岸《はまちょうがし》に「酔月《すいげつ》」という料理店をだした。そうした家業には不似合な、あんまり堅気な父親をもっていて、恋には一本気な彼女を抑圧しすぎた。我儘《わがまま》で、勝気で、売れっ児で通して来た驕慢《きょうまん》な女が、お酒のたちの悪い上に、ヒステリックになっていた時、心がけのよくない厭味《いやみ》な箱屋に、出過ぎた失礼なことをされては、前後無差別になってしまったのに同情出来る。彼女は自分の意識しないで犯した大罪を知ると直《すぐ》に、いさぎよく自首して出た。獄裡にあっても謹慎《きんしん》していたが、強度のヒステリーのために、夜々《よよ》殺したものに責められるように感じて、その命日になると、ことに気が荒くなっていたということであった。幾度かの恩赦《おんしゃ》によって、再び日の光を仰ぐ身となったが、薄幸のうちに死んでしまった。
六
ささや桃吉《ももきち》、春本万竜《はるもとまんりゅう》、照近江《てるおうみ》お鯉《こい》、富田屋八千代《とみたややちよ》、川勝歌蝶《かわかつかちょう》、富菊《とみぎく》、などは三都歌妓の代表として最も擢《ぬきんで》ている女たちであろう。そしても一人、忘れる事の出来ないのは新橋のぽんた――鹿島恵津子《かじまえつこ》夫人のある事である。
桃吉の「笹屋」は妓名の時の屋号ではない。笹屋の名は公爵|岩倉具張《いわくらともはり》氏と共棲《ともずみ》のころ、有楽橋《ゆうらくばし》の角に開いた三階づくりのカフェーの屋号で、公爵の定紋《じょうもん》笹竜胆《ささりんどう》からとった名だといわれている。桃吉はお鯉の照近江に居たのである。照近江から初代お鯉が桂公の寵妾《ちょうしょう》となり、二代目お鯉が西園寺侯爵の寵愛となった。二代つづいて時の総理大臣侯爵に思われたので、桃吉も発奮したのであろう、彼女は岩倉公を彼女ならではならぬものにしてしまった。そして大勢の子のある美しい桜子夫人との仲をへだてて館《やかた》を出るようにさせてしまった。そして二人は、桃吉《ももきち》御殿《ごてん》とよばれたほど豪華な住居をつくって住んだりした果《はて》が、負債のために稼がなければならないという口実で、彼女が厭《あ》きていた内裏雛《だいりびな》生活から、多くの異性に接触しやすい、もとの家業に近い店をだしたのであった。彼女は笹屋の主人となり、ダイヤモ
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