広さでも、以前の有明楼の、四分の一の構えだということである。
 此処に若いころは吉原の鴇鳥花魁《におとりおいらん》であって、田之助と浮名を流し、互いにせかれて、逢われぬ雪の日、他の客の脱捨《ぬぎす》てた衣服大小を、櫺子外《れんじそと》に待っている男のところへともたせてやって、上にはおらせ、やっと引き入《いれ》させたという情話をもち、待合「気楽の女将」として、花柳界にピリリとさせたお金《きん》の名も、洩《もら》すことは出来まい。この女も、明治時代の裏面の情史、暗黒史をかくには必ず出て来なければならない女であった。
 清元《きよもと》お葉《よう》は名人|太兵衛《たへえ》の娘で、ただに清元節の名人で、夫|延寿太夫《えんじゅだゆう》を引立て、養子延寿太夫を薫陶したばかりでなく、彼女も忘れてならない一人である。京都老妓|中西君尾《なかにしきみお》は、その晩年こそ、貰いあつめた黄金を、円き塊《かたまり》にして床《とこ》に安置したような、利殖倹約な京都女にすぎないように見えたが、維新前の国事艱難《こくじかんなん》なおりには、憂国の志士を助けて、義侠を知られたものである。井上侯がまだ聞太《もんた》とい
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