深刻な悲惨な目を見たのである。彼女は王侯貴人にもまさる贅沢《ぜいたく》が身にしみてしまっていた。そして彼女のはなはだしい道楽――彼女が生甲斐《いきがい》あるものとして、生きいるうちは一日も止めることの出来ないように思っていた、芸人を集めて、かるた遊びをしたり、弄花《ろうか》の慰《なぐさ》みにふけることは、どうしてもやめなければならないような病気にかかっていた。長い間の酒色《しゅしょく》、放埒《ほうらつ》のむくいからか、彼女の体は自由がきかなくなっていた。それでも彼女の奢《おご》りの癖は、吉原の老妓や、名古屋料理店の大升《だいます》の娘たちなどを、入びたりにさせ、機嫌をとらせていた。看護婦とでは、十人から十五人の人たちが、彼女の手足のかわりをして慰めていた。風呂に入る時などは幕を張り、屏風《びょうぶ》をめぐらし、そして静々《しずしず》と、ふくよかな羽根布団にくるまれて、室内を軽く辷《すべ》る車で、それらの人々にはこばせるのであった。野沢屋の店が、この親子三人――彼女は祖母で、娘は未亡人となり、主人はまだ無妻であった――のために月々仕払う生活費は一万円であったということである。無論たった三人のために台所番頭という役廻りまであって、その人たちは立派な一家をなし、中流以上の家計を営んでいたのである。
お上《かみ》女中、お下《しも》女中、三十人からの女中が一日、齷齪《あくせく》とすわる暇もなく、ざわざわしていた家である。台所もお上《かみ》の台所、お下《しも》の台どころとわかれ、器物などもそれぞれに応じて来客にも等差が非常にあった。
彼女はそうした生活から、そうした放縦《ほうしょう》の疲労から老衰を早めた。おりもおり、さしもに誇りを持った横浜の土地から、或夜、ひそかに逃げださなければならなかった。彼女は幾台かの自動車に守られて、かねて東京へ来たおりの遊び場処にと、それも贔屓《ひいき》のあまりにかい取っておいた、赤坂仲の町の俳優|尾上梅幸《おのえばいこう》の旧宅へと隠れた。
とはいえ彼女はさすがに苦労をした女であり、また身にあまる栄華を尽したことをも悟っていたのか、家の退転については、あまり見苦しい態度はとらなかったということである。病床にある彼女はすっかり諦めて、これが本来なのだ、もともと通りなのだと達観しているとも聞いたが、何処《どこ》やらに非凡なところがある女という事が知れる。
そうした幸運の人々の中には現総理大臣|原敬《はらたかし》氏の夫人もある。原氏の前夫人は中井桜洲《なかいおうしゅう》氏の愛嬢で美人のきこえが高かったが、放胆《ほうたん》な家庭に人となったので、有為の志をいだく青年の家庭をおさめる事は出来にくく離別になったが、困らぬように内々《ないない》面倒は見てやられるのだとも聞いていた。現夫人は、紅葉館の妓《ひと》だということである。丸顔なヒステリーだというほかは知らない。おなじ紅葉館の舞妓《まいこ》で、栄《さかえ》いみじい女は博文館《はくぶんかん》主大橋新太郎氏夫人須磨子さんであろう。彼女は何の理由でか、家を捨て東京へ出て来ていたある旅館の若主人の、放浪中に生せた娘であったが、舞踊にも秀《ひい》で、容貌は立並んで一際《ひときわ》美事《みごと》であったため、若いうちに大橋氏の夫人として入れられた。八人の子を生んでも衰えぬ容色を持っている。越後から出てほんの一|書肆《しょし》にすぎなかった大橋氏は、いまでは経済界中枢の人物で、我国大実業家中の幾人かであろう。傍《かたわ》らに大橋図書館をひかえた宏荘の建物の中に住い、令嬢豊子さんは子爵金子氏|令嗣《れいし》の新夫人となっている。よろずに思いたらぬことのない起伏《おきふ》しであろう。明治の文豪尾崎紅葉氏の「金色夜叉《こんじきやしゃ》」は、巌谷小波《いわやさざなみ》氏と須磨子夫人をとったものと噂されたが、小波氏は博文館になくてならない人であり、童話の作家として先駆者である。氏にも美しく賢《けん》なる伴侶《はんりょ》がある。
大橋夫人は美しかった故にそうした艶聞誤聞を多く持った。
長者とは――ただ富があるばかりの名称ではない。渋沢男爵こそ、長者の相をも人柄をも円満に具備した人だが、兼子夫人も若きおりは美人の名が高かった。彼女が渋沢氏の家の人となるときに涙ぐましい話がある。それは、なさぬ仲の先妻の子供があったからのなんのというのではない。深川|油堀《あぶらぼり》の伊勢八という資産家の娘に生れた兼子の浮き沈みである。
油堀は問屋町で、伊勢八は伊東八兵衛という水戸侯の金子御用達《きんすごようたし》であった。伊勢屋八兵衛の名は、横浜に名高かった天下の糸平と比べられて、米相場にも洋銀《ドル》相場にも威をふるったものであった。兼子は十二人の子女の一人で、十八のおり江州《ごうしゅう》
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