から婿《むこ》を呼びむかえた。かくて十年、家附きの娘は気兼もなく、娘時代と同様、物見遊山《ものみゆさん》に過していたが、傾《かたむ》く時にはさしもの家も一たまりもなく、僅《わず》かの手違《てちが》いから没落してしまった。婿になった人も子まであるに、近江《おうみ》へ帰されてしまった。(そのころ明治十三年ごろか?)市中は大コレラが流行していて、いやが上にも没落の人の心をふるえさせた。
 彼女は逢《あ》う人ごとに芸妓になりたいと頼んだのであった「大好きな芸妓になりたい」そういう言葉の裏には、どれほどの涙が秘められていたであろう。すこしでも家のものに余裕を与えたいと思うこころと、身をくだすせつなさをかくして、きかぬ気から、「好きだからなりたい」といって、きく人の心をいためない用心をしてまで身を金にかえようとしていた。両国のすしやという口入《くちい》れ宿は、そうした事の世話をするからと頼んでくれたものがあった。すると口入宿では妾《めかけ》の口ではどうだといって来た。
 妾というのならばどうしても嫌《いや》だと、口入れを散々|手古摺《てこず》らした。零落《おちぶ》れても気位《きぐらい》をおとさなかった彼女は、渋沢家では夫人がコレラでなくなって困っているからというので、後の事を引受けることになって連れてゆかれた。その家が以前の我家《わがや》――倒産した油堀の伊勢八のあとであろうとは――彼女は目くらめく心地で台所の敷居を踏んだ。
 彼女はいま財界になくてならぬ大名士《だいめいし》の、時めく男爵夫人である。飛鳥山《あすかやま》の別荘に起臥《おきふ》しされているが、深川の本宅は、思出の多い、彼女の一生の振出しの家である。

       三

 さて明治のはじめに娼妓解放令の出た事を、当今の婦人は知らなければならない。それはやがて大流行になった男女交際の魁《さきがけ》をしたもので、いわゆる明治十七、八年頃の鹿鳴館《ろくめいかん》時代――華族も大臣も実業家も、令夫人令嬢同伴で、毎夜、夜を徹して舞踏に夢中になった、西洋心酔時代の先駆《せんく》をなしたものであった。その頃吉原には、金瓶楼《きんぺいろう》今紫《いまむらさき》が名高い一人であった。彼女は昔時《いにしえ》の太夫職《たゆうしょく》の誇りをとどめた才色兼美の女で、廃藩置県のころの諸侯を呼びよせたものである。山内容堂《やまのうちようどう》侯は彼女に、その頃としては実に珍らしい大形の立鏡《たてかがみ》を贈られたりした。彼女は今様男舞《いまようおとこまい》を呼びものにしていた。緋《ひ》の袴《はかま》に水干立烏帽子《すいかんたてえぼし》、ものめずらしいその扮装《ふんそう》は、彼女の技芸と相まってその名を高からしめた。明治廿四年|依田学海《よだがくかい》翁が、男女混合の演劇をくわだてた時に、彼女は千歳米坡《ちとせべいは》や、市川九女八《いちかわくめはち》の守住月華《もりずみげっか》と共に女軍《じょぐん》として活動を共にしようと馳《は》せ参じた。その後も地方を今紫の名を売物にして、若い頃の男舞いを持ち廻っていた様であった。一頃《ひところ》は、根岸に待合めいたこともしていた。晩年に夫としていたのは、彼《か》の相馬事件――子爵相馬家のお家騒動で、腹違いの兄弟の家督争いであった。兄の誠胤《せいいん》とよばれた子爵が幽閉され狂人とされていたのを、旧臣|錦織剛清《にしごおりごうせい》が助けだした――の錦織剛清であった。
 遊女に今紫があれば芸妓に芳町《よしちょう》の米八《よねはち》があった。後に千歳米坡と名乗って舞台にも出れば、寄席《よせ》にも出て投節《なげぶし》などを唄っていた。彼女はじきに乱髪《らんぱつ》になる癖があった。席亭《せきてい》に出ても鉢巻のようなものをして自慢の髪を――ある折はばらりと肩ぐらいで切っている事もあった。彼女が米八の昔は、時の人からたった二人の俊髦《しゅんもう》として許された男――末松謙澄《すえまつけんちょう》と光明寺三郎《こうみょうじさぶろう》――いずれをとろうと思い迷ったほど、思上った気位で、引手あまたであった。とうとうその一人の光明寺三郎夫人となったが、天は、その能ある才人に寿《じゅ》をかさず、企図は総て空しいものとされてしまった。彼女はその後、浮世を真っすぐに送る気をなくしてしまって、斗酒《としゅ》をあおって席亭で小唄をうたいながら、いつまでも鏡を見てくらす生涯を送るようになった。しかし伝法《でんぽう》な、負けずぎらいな彼女も寄る年波には争われない。ある夜、外堀線《そとぼりせん》の電車へのった時に、美女ではあるが、何処やら年齢のつろくせぬ不思議な女が乗合わせた、と顔を見合わした時に、彼女はそれと察してかクルリと後をむいて、かなり長い間を立ったままであった。席はむしろすきすぎていたの
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