ある。明治十六年の夏、山王《さんのう》――麹町|日枝《ひえ》神社の大祭のおりのことであった。芸妓歌吉は、日本橋の芸妓たちと一緒に手古舞《てこまい》に出た、その姿をうみの男の子で、鍛冶屋《かじや》に奉公にやってあるのを呼んで見物させて、よそながら別れをかわした上、檜物町《ひものちょう》の、我家の奥蔵の三階へ、彼女たちの父親を呼んで、刃物で心中したのであった。
 彼女たちは後に、芝居でする「天の網島」を見てどんな気持ちに打たれたであろうか、紙屋治兵衛《かみやじへえ》は他人の親でなく、浄瑠璃でなく、我親そのままなのである。京橋八官町の唐物屋《とうぶつや》吉田吉兵衛なのである。
 彼女たちの父は入婿《いりむこ》であった。母は気強《きごう》な女であった。また芸妓歌吉の母親や妹も気の強い気質であった。その間に立って、気の弱い男女は、互いに可愛い子供を残して身を亡《ほろぼ》したのである。其処に人世の暗いものと、心の葛藤《かっとう》とがなければならない。結びついて絡《から》まった、ついには身を殺されなければならない悲劇の要素があったに違いない。
 その当時の新聞記事によると、歌吉の母親は、対手《あいて》の男の遺子たちに向って、お前方も成長《おおき》くなるが、間違ってもこんな真似をしてはいけないという意味を言聞かして、涙|一滴《いってき》こぼさなかったのは、気丈な婆さんだと書いてあった。その折、言聞かされて頷《うなず》いていた少女が、たき子と貞子の姉妹で、彼女の母親は、彼女たちの父親を死に誘った、憎みと怨《うら》みをもたなければならないであろう妓女《げいしゃ》に、この姉妹《きょうだい》をした。彼女たちは直《すぐ》に新橋へ現れた。
 複雑な心裡《しんり》の解剖はやめよう。ともあれ彼女たちは幸運を羸《か》ち得たのである。情も恋もあろう若き身が、あの老侯爵に侍《かしず》いて三十年、いたずらに青春は過ぎてしまったのである。老公爵百年の後の彼女の感慨はどんなであろう。夫を芸妓に心中されてしまった彼女の母親は、新橋に吉田家という芸妓屋を出していた。そして後の夫は講談師|伯知《はくち》である。夫には、日本帝国を背負っている自負の大勲位公爵を持ち、義父に講談師伯知を持った貞子の運命は、明治期においても数奇なる美女の一人といわなければなるまい。
 その他|淑徳《しゅくとく》の高い故伊藤公爵の夫人梅子も前身は馬関《ばかん》の芸妓小梅である。山本権兵衛伯夫人は品川の妓楼に身を沈めた女である。桂公爵夫人加奈子も名古屋の旗亭香雪軒《きていかせつけん》の養女である。伯爵黒田清輝画伯夫人も柳橋でならした美人である。大倉喜八郎夫人は吉原の引手茶屋の養女ということである。銅山王古川虎之助氏母堂は、柳橋でならした小清さんである。
 横浜の茂木《もぎ》、生糸の茂木と派手にその名がきこえていた、生糸王野沢屋の店の没落は、七十四銀行の取附け騒ぎと共にまだ世人の耳に新らしいことであろう。その茂木氏の繁栄をなさせ、またその繁栄を没落させたかげに、当代の若主人の祖母おちょうのある事を知る物はすけない。彼女は江戸が東京になって間もない赤坂で、常磐津《ときわず》の三味線をとって、師匠とも町芸者ともつかずに出たが、思わしくなかったので、当時開港場として盛んな人気の集った、金づかいのあらい横浜へ、みよりの琴の師匠をたよって来て芸者となった伝法《でんぼう》な、気っぷのよい、江戸育ちの歯ぎれのよいのが、大きな運を賭《かけ》てかかる投機的の人心に合って、彼女はめきめき[#「めきめき」に傍点]と売り出した。その折、彼女の野心を満足させたのは、横浜と共に太ってゆく資産家野沢屋の旦那をつかまえたことであった。

 野沢屋茂木氏には糟糠《そうこう》の妻があった。彼女は遊女上りでこそあるが、一心になって夫を助け家を富《とま》した大切な妻であった。その他に野沢屋には総番頭支配人に、生糸店として野沢屋の名をなさせた大功のある人物があった。その二人のために、さすがに溺《おぼ》れた主人も彼女をすぐに家に入れなかった。長い年月を彼女は外妾として暮さなければならなかった。
 茂木氏夫妻には実子がなかった。夫婦の姪《めい》と甥《おい》を呼び寄せ、めあわせて二代目とした。ところが外妾の方には子が出来た。女であったので後に養子をしたが、現代の惣兵衛氏の親たちで、彼女が野沢屋の大奥さんとして、出来るだけの栄華にふける種をおろしたのであった。
 過日あの没落騒動《ぼつらく》があった時に、おなじ横浜に早くから目をつけて来たが、茂木氏のような運を掴《つか》み得ないで、国許《くにもと》に居るときよりは、一層せちがらい世を送っている者たちはこう言った。
「とうとう本妻の罰があたったのだ。悪運も末になって傾いて来たのだ。」
 なるほど彼女はかなり
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