前身は馬関《ばかん》の芸妓小梅である。山本権兵衛伯夫人は品川の妓楼に身を沈めた女である。桂公爵夫人加奈子も名古屋の旗亭香雪軒《きていかせつけん》の養女である。伯爵黒田清輝画伯夫人も柳橋でならした美人である。大倉喜八郎夫人は吉原の引手茶屋の養女ということである。銅山王古川虎之助氏母堂は、柳橋でならした小清さんである。
横浜の茂木《もぎ》、生糸の茂木と派手にその名がきこえていた、生糸王野沢屋の店の没落は、七十四銀行の取附け騒ぎと共にまだ世人の耳に新らしいことであろう。その茂木氏の繁栄をなさせ、またその繁栄を没落させたかげに、当代の若主人の祖母おちょうのある事を知る物はすけない。彼女は江戸が東京になって間もない赤坂で、常磐津《ときわず》の三味線をとって、師匠とも町芸者ともつかずに出たが、思わしくなかったので、当時開港場として盛んな人気の集った、金づかいのあらい横浜へ、みよりの琴の師匠をたよって来て芸者となった伝法《でんぼう》な、気っぷのよい、江戸育ちの歯ぎれのよいのが、大きな運を賭《かけ》てかかる投機的の人心に合って、彼女はめきめき[#「めきめき」に傍点]と売り出した。その折、彼女の野心を満足させたのは、横浜と共に太ってゆく資産家野沢屋の旦那をつかまえたことであった。
野沢屋茂木氏には糟糠《そうこう》の妻があった。彼女は遊女上りでこそあるが、一心になって夫を助け家を富《とま》した大切な妻であった。その他に野沢屋には総番頭支配人に、生糸店として野沢屋の名をなさせた大功のある人物があった。その二人のために、さすがに溺《おぼ》れた主人も彼女をすぐに家に入れなかった。長い年月を彼女は外妾として暮さなければならなかった。
茂木氏夫妻には実子がなかった。夫婦の姪《めい》と甥《おい》を呼び寄せ、めあわせて二代目とした。ところが外妾の方には子が出来た。女であったので後に養子をしたが、現代の惣兵衛氏の親たちで、彼女が野沢屋の大奥さんとして、出来るだけの栄華にふける種をおろしたのであった。
過日あの没落騒動《ぼつらく》があった時に、おなじ横浜に早くから目をつけて来たが、茂木氏のような運を掴《つか》み得ないで、国許《くにもと》に居るときよりは、一層せちがらい世を送っている者たちはこう言った。
「とうとう本妻の罰があたったのだ。悪運も末になって傾いて来たのだ。」
なるほど彼女はかなり
前へ
次へ
全22ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング