は自分だけの立場がごまかせればよいといふのであらうが、面《つら》が立たねえと、昔の芝居の二番目ものなどで見得をきるのも、多くはそれに似通つてゐる。誠にせまい道徳――道徳といつてをかしければ、狹い自己滿足だ。わたしはかういふ世界を好かない。その裏にある潔癖だけを――せまい正義感だけを買ひはするが、およそ、わたしの時代觀とはかけ離れたものだ。
 姉御とは本當は姉御前《あねごぜ》の尊稱で、御《ご》とは敬し親《した》しんだ呼び名ゆゑ、母御前《はゝごぜ》とおなじに、よばれて嬉しい名でなければならないのを、きやん(侠)な呼名に轉化してしまつて、あばずれといふふうになつてしまつてゐる。ごくよい意味にとる時に女丈夫といつたものも含んでゐるし、サラリとした氣風をも籠めて、あねご肌《はだ》といふやうだが、事實はすこし異つてゐる。サラリとした氣風といふなかには、生れだちの氣風もあるし、修業によつて超然たる悟りもあるし、ガラツパチの粗雜なものとは、てんから質においてちがつてゐることは、女丈夫をもその中に入れるやうだが、女丈夫は讀んで字のごとくますらをの魂がある女なのだ。
 もとより仁侠の、親分にしても姐御にしても、白刄《しらは》の中をもおそれぬ氣魄《きはく》と正義觀《せいぎくわん》のあつた者を、當初《はじめ》は立ててきたのであらうが、總稱して、姐御とは親分のおかみさんをさすことになり、それに似たつくりのあばずれ女などを多くさしていつたものとなつたのだ。丈夫魂《ますらをだましひ》は、男の所有のものばかりだと思つてもらつてはちつと困る。男にだつて持ちあはせぬものの方が多い。だからこそ、わざわざますらをといふ言葉が立派さうにあるので、女にもますらをだましひの所有者は澤山《たくさん》にある。ごく大昔のことはいはなくつても、近代にも、武家の妻にも町人の妻にも娘にも、業《ぎやう》に徹した尼さんなどにも實に多くある。女として外見からいかついのは、眞《しん》のますらを魂《だましひ》の所有者ではない。
 で、よく人の面倒を見るやうだから姐御だといふならば、それは甚だ非理で、そこに心から迸《ほとば》しるやはらぎと、人入《ひとい》れ稼業をかねた、傍の迷惑をかへりみぬもの好きとの區別がなければならない。いはゆる女親分、姐御はそれが商業《しやうばい》で、勢力をつくるためにさうするのだ。だから、性分はケチンボでもきれ
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