ところで、鐵火とは、卷き舌で、齒ぎれのよい肌合を差していつたものだが、氣のあらい勇《いさ》み肌《はだ》のなかでも、鐵火といはれるのは、どうしたことかすこし下品さをふくんでゐる。鐵が火のやうに燒けて、カンカンなのか、火のやうに強い性格といふのか、それとも火のやうに燒けた鐵の棒を突きつけられても、おそれない人といふのか、そんなことは、さうした方面の研究をしてゐる人にでもきかなければ由來はわからないが、坎《かん》、もしくは駻《かん》なるものならば、女の時にもつてくれば、疳《かん》の高い馬のやうな跳つかへりをさしたものともおもへる。「言泉《ことばのいづみ》」を見ると、戰國時代に罪の虚實を糺さんために、鐵を赤熱せしめて握らせるものとある。そしてまた、心ざま兇惡無慙なること、野鄙殺伐《やひさつばつ》ともある。鐵火肌はさうした性質ともある。
 そこで、獨立した女親分――そんなふうなものをも姐御といひ、尊稱して大姐御ととなへるやうだが、わたしはこの位きらひなものはない。なぜなら、いやに偉らがつて、そこに、あざけ[#「あざけ」に傍点]きつたものが多分にあるからだ。
 ともあれ、まづ、江戸末期の頽廢した、朝酒《あさざけ》でもひつかぶつてゐられるやうな時期の、大姐御といふもののかたちを示してみると、黒じゆすの襟のかかつた廣袖《ひろそで》の綿入れ半纒、頭髮はいぼぢり[#「いぼぢり」に傍点]卷きか、おたらひ、長羅宇の煙管をついて長火鉢の前に立膝。白の濱ちりめんの湯まきに、藍辨慶のお召、黒の唐じゆすと茶博多のはらあはせのひつかけ帶――事實これが似合ふ女は、さうザラにあるものではない。甚ださつぱりしてゐるやうでゐて、おそろしく、人によつてなまめかしくなる。そこで素地《きぢ》を洗ひ出す必要があつたのであらうが、當今の芝居で見るやうな、場違ひの、エロつぽいものも澤山あつたものと思へる。およそ、厭味なのが多かつたことであらう。
 しかも、早のみこみで、勘《かん》ぐりで、小才がある。かういふ女がおつちよこちよいをけしかけたのだから、小喧嘩《こいさかひ》は絶えない筈ではなからうか。ものの根本《こんぽん》をわきまへず、親分の顏――面《つら》がたたねえといふだけで、蝗螽《いなご》のやうに跳ねあがる。今日でも、支那の古い方面では、何事も面態、めんずといふさうだ。面態《めんず》さへたてば、どうでもいいといふの
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