の御家庭が、なかなか費《つい》えのある事を思わず、またそうした苦悩をしのんでも、志した道に精進して、婦人の覚醒《かくせい》に力をつくされる、社会的な、広義な愛を――新人の味わう悲痛を知ろうとしないのに、憎らしささえ覚えました。
 らいてうさま。あなたは、言うにいえない、人知れぬ苦い涙を、幾度お味《あじわ》いなさいましたろうとおいとしく思います。あなたは、優しい夫君、いとしいお子たちに取りまかれて、静かに出来るだけの日を静養なさいまし。そして心身ともに以前に倍しておすこやかになり、ともすれば懶惰《らんだ》に、億劫《おっくう》になりがちなわたしたちのために、発奮させる原素となって下さいまし。

       五

 らいてうさま、
 わたくしはもう「煤烟《ばいえん》」を読んだおりの感想を思い出すことが出来ません。たしか寒い、雪の中を、あなたが気強さを守り通して、一人で山の方へ立っておしまいなさったということをおぼえておるだけです。そのうち、「煤烟」の作者を、ずっと後に見かけた事があります。大柄な、肥《ふと》った、近眼鏡をかけた色の白い、髪を短くかった方でした。以前からお連添《つれそ》いになっている藤間勘次さんが、藤間静枝の「藤蔭会《とういんかい》」の第一回に出られた時のことで、日本橋の常盤《ときわ》倶楽部で御座いました。その折にわたくしは何故となく「煤烟」は男の方から見ただけで書いたものだという気持がしました。その後、『青鞜』から尾竹紅吉さんの『サフラン』が生れ、『青鞜』が伊藤野枝《いとうのえ》さんのお手に移ってやめられてから、『青鞜』の第二世という『ビアトリス』が新《あらた》に生れ、そしてその同人|山田田鶴子《やまだたずこ》さんに時折お目にかかる機会が来たときに、山田さんから伺ったはなしでは「煤烟」の作者は、幾度「煤烟」を繰《くり》かえそうとなすっているかと、ほほえまれるので御座いました。
 あの事件――あなたのお名がわたくしにも親しみ深くなったおり、あなたの処女作でおありだろうと思う、たしか二場ばかりの脚本を載せた小さな雑誌の寄贈をうけたことがありましたが、「煤烟」の中のあなたらしい女性をとりあつかった題材で、脚本そのものは、平ったくもうせば、よかったとはもうせませんが、わたくしは大変興味をもって読みました。そのまたあなたが禅をお学びだということもそのうち承わりまし
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング