びて、倶《とも》に他郷の地をふまんとは、かけても思ひよらざりしを、行方なしや迷ひ……窓の呉竹《くれたけ》ふる雪に心|下折《したお》れて、我も人も、罪は誠の罪になりぬ」
とある。言わずともわが身――世馴《よな》れぬ無垢《むく》の乙女《おとめ》なればこうもなろうかと、彼女自身がそうもなりかねぬ心の裏《うち》を書いて見たものと見ることが出来よう。
彼女は恋に破れても名には勝った。困窮は堪《たえ》忍び得たが病苦には打敗《うちまけ》てしまった。彼女の生存の末期は作品の全盛時にむかっていた。『国民の友』の春季附録には、江見水蔭《えみすいいん》、星野天知《ほしのてんち》、後藤宙外《ごとうちゅうがい》、泉鏡花に加えて彼女の「別れ路《みち》」が出た。評家は口をそろえて彼女を讃《たた》えた。世人はそれを「道成寺《どうじょうじ》」に見たて、彼女を白拍子《しらびょうし》一葉とし、他のものを同宿坊と言伝えたほどであった。それは二十九年一月のことである。その年の四月には咽喉《のど》が腫《は》れ、七月初旬には日々卅九度の熱となった。山竜堂《さんりゅうどう》樫村《かしむら》博士も、青山博士も医療は無効だと断言した
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