だこともある。久佐賀も彼女の家を度々《たびたび》訪ずれた。
久佐賀と懇意になった後《のち》、直に彼女の一家は本郷へ引移った。荒物店を譲って、丸山福山町の阿部家の山添いで、池にそうた小家へ移った。其処は「守喜《もりき》」という鰻屋《うなぎや》の離れ座敷に建てたところで、狭くても気に入った住居であったらしかった。家賃三円にて高しといったのでも、質素な暮しむきが見える。現にこの間《あいだ》、歌舞伎座で河合、喜多村の両優によって、はじめて女史の作が劇として上場されたあの「濁り江」は、この家に移ってから、その近傍の新開地にありがちな飲屋の女を書いたものであった。女史は其処に移ってからもそうした種類の人たちに頼まれて手紙の代筆をしてやった。ある女は女史の代筆でなくてはならないとて、数寄屋《すきや》町の芸妓になった後もわざわざ人力車に乗って書いてもらいに来たという。「濁り江」のお力は、その芸妓になった女をモデルにしたともいわれている。そしてそこが終焉《しゅうえん》の地となった。
引越しの動機が彼女の発起でないことは、
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国子はものに堪《たえ》忍ぶの気象とぼし、この分厘にいた
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