も、忠実に書かなければならないと思う。ともかくも、私はまずこの人の生れた月日と、その所縁のつづきあいとを書落さぬうちにしるしておこう。
二
一葉女史は江戸っ子だ、いや甲州生れだという小さな口論争《くちあらそい》を私は折々聴いた。それはどっちも根拠のないあらそいではなかった。女史が生れたのは東京府庁のあった麹町《こうじまち》の山下町に初声《うぶごえ》をあげた。明治五年には他《ほか》にどんな知名の人が生れたか知らぬが、私たち女性の間には、ことに文芸に携わるものには覚えていてよい年であろう。数え年の六歳に本郷《ほんごう》小学校へ入学した。その年は明治の年間でも、末の代まで記憶に残るであろう西南戦争のあった年で、西郷隆盛が若くから国家のために沸かした熱血を、城山の土に濺《そそ》いだ時である。翌年の七歳には特に手習《てならい》師匠にあがった。一葉女史の筆蹟が実に美事であるのも、そうした素養がある上に、後に歌人で千蔭流の筆道の達者であった中島師についたからだ。十五年の夏には下谷《したや》池《いけ》の端《はた》の青海小学校へ移り、その翌年に退校した。その後は他で勉学したとは公には
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