屈をすると鬢《びん》の毛の一、二本ほつれたのを手のさきで弄《いじ》り、それを見詰めながらはなす。話に油がのってくると、間《あいだ》をへだてていたのが、いつの間にか対手《あいて》の膝《ひざ》の方へ、真中にはさんだ火鉢《ひばち》をグイグイ押してくるほど一生懸命でもあったという。
 半日に一枚の浴衣《ゆかた》をしたてあげる内職をしたり、あるおりは荒物屋《あらものや》の店を出すとて、自ら買出しの荷物を背負《せお》い、ある宵《よい》は吉原《よしわら》の引手茶屋《ひきてぢゃや》に手伝いにたのまれて、台所で御酒のおかんをしていたり、ある日は「御料理仕出し」の招牌《かんばん》をたのまれて千蔭《ちかげ》流の筆を揮《ふる》い、そうした家の女たちから頼まれる手紙の代筆をしながらも、
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小説のことに従事し始めて一年にも近くなりぬ、いまだよに出したるものもなく、我が心ゆくものもなし、親はらからなどの、なれは決断の心うとく、跡のみかへり見ればぞかく月日ばかり重ぬるなれ、名人上手と呼ばるゝ人も初作より世にもてはやさるゝべきにはあるまじ、非難せられてこそそのあたひも定まるなれと、くれ/″\せめらる、おのれ思ふにはかなき戯作《げさく》のよしなしごとなるものから、我が筆とるはまことなり、衣食のためになすといへども、雨露しのぐための業《わざ》といへど、拙なるものは誰が目にも拙とみゆらん、我れ筆とるといふ名ある上は、いかで大方のよの人のごと一たび読みされば屑籠《くずかご》に投げらるゝものは得《え》かくまじ、人情浮薄にて、今日喜ばるゝもの明日は捨てらるゝのよといへども、真情に訴へ、真情をうつさば、一葉の戯著といふともなどかは価のあらざるべき、我れは錦衣《きんい》を望むものならず、高殿《たかどの》を願ふならず、千載《せんざい》にのこさん名一時のためにえやは汚がす、一片の短文三度稿をかへて而《しか》して世の評を仰がんとするも、空《むな》しく紙筆のつひへに終らば、猶《なお》天命と観ぜんのみ。(一葉随筆、「森のした草」の中より)
おろかやわれをすね物といふ、明治の清少《せいしょう》といひ、女|西鶴《さいかく》といひ、祇園《ぎおん》の百合《ゆり》がおもかげをしたふとさけび小万茶屋がむかしをうたふもあめり、何事ぞや身は小官吏の乙娘《おとむすめ》に生まれて手芸つたはらず文学に縁とほく、わづかに萩《は
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