なる、才女を怒らせないような文面をもって求婚を申入れた。それは廿七年の六月九日のことで女史が廿三歳の時である。
(貴女の御困苦が私の一身にも引くらべられて悲しいから、御成業の暁までを引受けさせて頂きたい。けれども唯《ただ》一面識のみでは、お頼みになるのも苦しいだろうから、どうか一身を私に委《ゆだ》ねてはくれまいか。)
そんな風な申込に対して苦笑せずにいられるだろうか? いうまでもなく彼女は彼れを評して、笑うにたえたしれもの[#「しれもの」に傍点]、投機師と罵《ののし》っている。世のくだれるをなげきて一道の光を起さんと志すものが、目前の苦しみをのがれるために、尊ぶべき操《みさお》を売ろうかと嘲笑した。とはいえ、救いは願っていたのである。そうした悲しい矛盾を忍ばねばならなかった貧乏は、彼女に女らしさを失わぬ返事を認《したた》めさせた。
(どうかそういう事は仰しゃらないで、大事をするに足りるとお思いになるならば扶助をお与え下さい。でなければ一言《ひとこと》にお断り下さい)
と彼女は明らかな決心を持って、とはいえ事の破れにならぬようにと、余儀なく祈る返事を出した。その後も五十金の借用を申込んだこともある。久佐賀も彼女の家を度々《たびたび》訪ずれた。
久佐賀と懇意になった後《のち》、直に彼女の一家は本郷へ引移った。荒物店を譲って、丸山福山町の阿部家の山添いで、池にそうた小家へ移った。其処は「守喜《もりき》」という鰻屋《うなぎや》の離れ座敷に建てたところで、狭くても気に入った住居であったらしかった。家賃三円にて高しといったのでも、質素な暮しむきが見える。現にこの間《あいだ》、歌舞伎座で河合、喜多村の両優によって、はじめて女史の作が劇として上場されたあの「濁り江」は、この家に移ってから、その近傍の新開地にありがちな飲屋の女を書いたものであった。女史は其処に移ってからもそうした種類の人たちに頼まれて手紙の代筆をしてやった。ある女は女史の代筆でなくてはならないとて、数寄屋《すきや》町の芸妓になった後もわざわざ人力車に乗って書いてもらいに来たという。「濁り江」のお力は、その芸妓になった女をモデルにしたともいわれている。そしてそこが終焉《しゅうえん》の地となった。
引越しの動機が彼女の発起でないことは、
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国子はものに堪《たえ》忍ぶの気象とぼし、この分厘にいた
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