く厭《あき》たるころとて、前後の慮《おもんばかり》なくやめにせばやとひたすら進む。母君もかく塵《ちり》の中にうごめき居らんよりは小さしといへど門構への家に入り、やはらかき衣類にても重ねまほしきが願ひなり、されば我もとの心は知るやしらずや、両人とも進むること切なり。されど年比《としごろ》売尽し、かり尽しぬる後の事とて、この店を閉ぢぬるのち、何方《いずかた》より一銭の入金のあるまじきをおもへば、ここに思慮を廻《めぐ》らさざるべからず。さらばとて運動の方法をさだむ。まづかぢ町《ちょう》なる遠銀《えんぎん》に金子《きんす》五十円の調達を申込む。こは父君|存生《ぞんしょう》の頃よりつねに二、三百の金はかし置《おき》たる人なる上、しかも商法手広く表をうる人にさへあれば、はじめてのこととて無情《なさけな》くはよもとかゝりしなり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](「塵中日記」より)
私はもうこの辺で、その人のためには、茅屋《ぼうおく》も金殿玉楼と思いなして訪《と》いおとずれた、その当時はまだ若盛りであった、明治文壇の諸先輩の名をつらねることも、忘れてならない一事だろうと、ほんの、当時の往来だけでもあっさり書いておこうと思う。
第一に孤蝶子――馬場氏が日記の中で巾《はば》をきかしている――先生の熱心と、友愛の情には、女史も心を動かされた事があったのであろう。その次には平田禿木《ひらたとくぼく》氏であろう、この二人のためにはかなり日記に字数が納められている。そしてこの二人の親密な友垣の間にあって、女史は淡い悲しみとゆかしさを抱いていたのであろう。
「水の上日記」五月十日の夜のくだりには、池に蛙《かえる》の声しきりに、燈影《とうえい》風にしばしばまたたくところ、座するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子、はやく高知の名物とたたえられし、兄君|辰猪《たつい》が気魂を伝えて、別に詩文の別天地をたくわゆれば、優美高潔かね備えて、おしむところは短慮小心、大事のなしがたからん生れなるべけれども歳は、廿七、一度|跳《おど》らば山をも越ゆべしとある。
平田禿木は日本橋伊勢町の商家の子、家は数代の豪商にして家産今|漸《ようや》くかたぶき、身に思うこと重なるころとはいえ、文学界中出色の文士、年齢は一の年少にして廿三とか聞けり。今の間に高等学校、大学校越ゆれば、学士の称号目の前にあり、彼れは
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