なるたけ、出してあげたいと、骨を折っているけれど――」
 彼女は、娘の描いた、おとなしい絵を手にとって眺めて沈呻《ちんしん》した。
 ――この娘はもっと強い子だが――
 琴を弾《ひ》かせても黙って弾《ひ》いている。あれは、あの時、胸のなかに、何か、物足らない思いが一ぱいに詰まっているのだ。この娘は、何も言わないが、どんなことを考えているか知れたものではないと、母親には、それが心配なのだ。
 けれど、錦子が琴をかき鳴らしても唄わないのは、邪念があったのではない。琴の糸の奏《かな》で出すあや[#「あや」に傍点]は、彼女の空想を一ぱいにふくらませ、どの芽から摘んでいいかわからない想いが湧上《わきあが》るのだ。どう整理してよいか、まだ、そのわけが分明《はっきり》としないものが醗酵《はっこう》しかけてくるのだ。だから彼女は、うっとりとしたような、不機嫌のような、押だまったままでいるのだ。だがとうとう、錦子は、朝夕眺めた、鳥海山も羽黒山も後にして、出京することになった。

       二

 山田武太郎と表札の出ている、美妙斎の住居《すまい》を訪れた、みちのく少女《おとめ》のいなぶねは、田舎娘が来たのかと、気にもかけなかったであろう美妙に、ハッと目を瞶《みは》らせた。
 美妙は、たしか二十歳ごろから四、五年の間、女学生向きの『いらつめ』という月刊雑誌を出したりして、若い女性たちとも、顔をあわせることも多くあったし、その時分も、浅草公園裏の薄茶の店の、石井おとめとの関係もあったのだが、この小説家志願娘には心をひかれた。
 ――いなにはあらぬいなぶねの――
 そんな句も、詩人美妙の胸には、ふと浮かんだかも知れない。
「稲舟《いなぶね》って好い名だな。錦子さんでも好いけれど、最上川《もがみがわ》がそばなのでしょう。みちのくというと、最上川だの、名取川だの、衣川《ころもがわ》だの、北上川《きたかみがわ》だのって、なつかしい川の名が多い。父が、ずっと、あっちにいたからかも知れないが――」
 美妙は、無口な娘を前にして、そんなことをいった。
 美妙斎のお父さんは、維新前後奥州の方にいっていて、美妙の武太郎は明治元年の夏留守中に生れたのだった。その後、長野県の方にお父さんは警部をつとめていて、美妙は、やかましい祖母《おばあ》さんと、お母さんに育てられた、内気な、おとなしい息子《むすこ》だった。
 父親が懐《なつか》しかった少年時を思出して、美妙は、あっちの方の川の名など数えたりして見た。
「絵はやめてしまうのですか?」
「ええ。」
「小説を書こうというの?」
「ええ。」
 十七でしたね、と訊《き》いてから美妙はおもしろい暗合を思い出していた。
 十七という年齢《とし》は、才女に、なにか不思議なつながりを持つのか、中島|湘煙《しょうえん》女史(自由党の箱入娘とよばれた岸田|俊子《としこ》)も、十七歳のとき宮中へ召され、下田《しもだ》歌子女史も、まだ平尾|鉐子《せきこ》といった時分、十七で宮中官女に召され、歌子という名をたまわったのだ。そのほかにと考えながら、
「田辺龍子《たなべたつこ》(三宅《みやけ》龍子・雪嶺《せつれい》氏夫人)さんも十七位だったかな、小説を書きはじめたのは、そうだ、木村|曙《あけぼの》女史も十七からだ。」
と、日本の、明治の、巾幗《きんかく》小説家たちの、創世期時代の人々の名をあげたが、それは、そんな古いことではなかったから、錦子も、おぼろげながら知っていた。
「あたくしに、書けましょうか。」
 唐人髷《とうじんまげ》の、艶《つや》やかなのと、花櫛《はなぐし》ばかりを見せているように、うつむいてばかりいる娘は、その時顔をあげて、正面に美妙斎と眼を合わせた。
 生際《はえぎわ》の、クッキリした、白い額が、はずかしさに顔中赤味をさしたので、うつくしく匂った。女らしさがすぎるほど、女らしい女だった。
 肉附きの好い丸顔で――着物は何を着ていたかわからないが、彼女が次の年に「白薔薇《しろばら》」を書いたなかに、赤襟、唐人髷の美しいお嬢さまが、九段《くだん》の坂の上をもの思いつつ歩く姿を、人の目につく黄八丈《きはちじょう》の、一ツ小袖に藤色紋|縮緬《ちりめん》の被布《ひふ》をかさね――とあるのは、尤《もっと》も当時の好みであったから、それを応用しても間違いはなかろう。唐人髷が大好きだったことは友達が知っている。
 美妙斎は二十七になった美丈夫だ。白皙《はくせき》、黒髪、長身で、おとなしやかな坊ちゃん育ちも、彼の覇気《はき》は、かなり自由に伸びて、雑誌『都《みやこ》の花』主幹として、日本橋区本町の金港堂《きんこうどう》書店から十分な月給をとっていたうえに、創作の収入も多かった。

 裄《ゆき》を、いくら伸して見ても、女の着物の仕立は、一尺七寸五、六分より裄は出ない。
 大柄《おおがら》な娘というのではないが、錦子はシックリした肉附きだ。丸い肩の上に、五分ほどつまんだ肩上げが、地方から出て来た娘々して、何処か鄙《ひな》びているのを、美妙は、掘りたての、土の着いている竹の子のように、皮を剥《む》いていった下の、新鮮なものを感じていた。
 立った姿も、思いがけなく、すんなり[#「すんなり」に傍点]しているのに、この娘のアクをおとしたならば、素晴らしいと見た。
 この娘が、無口でいて、体で、何か雄弁に語っているのに気がつくと、紙へ書かせたならば、無口なだけに、案外大胆なことを書くのではないかと思ったのだろう。
「絵を習うよりは、君は、書いた方が好《い》いかも知れないね」
と、力を入れてやっても好《い》いふうに言った。
 アクをおとしたならば、と美妙は錦子を見たが、そういう美妙もアクのある好みの方だった。何かの好みが、紅葉とは違っていた。
 それは、紅葉は町の子であって、美妙は神田ッ子でも、警部さんの息子で、家庭が、京阪でいうモッサリしていたからでもあろうが、大学予備門にいた、十九歳ごろから、小説で売出してからでも、長靴好きでよく穿《は》いていたということだ。
 だがまた、それは、明治の初期から二十年ころまではそうしたふうがハイカラだったのだ。ハイカラ――高襟は、もっと、ずっと後日で生れた言葉だが、言い現《あらわ》すのに都合が好いから借用する。芝居の、黙阿弥《もくあみ》もので見てもわかるが、房《ふ》っさりした散髪を一握り額にこぼして、シャツを着て長靴を穿《は》いているのが、文明開化人だ。しかも、金巾《カナキン》のポッサリした兵児帯《へこおび》を締《しめ》て、ダラリと尻《しり》へ垂らしている。これも後には、白か紫の唐縮緬《モスリン》になり、哀れなほど腰の弱い安|縮緬《ちりめん》や、羽二重《はぶたえ》絞りの猫じゃらしになったが、どんな本絞りの鹿《か》の子《こ》でも、ぐいと締る下町ッ子とは、何処か肌合《はだあい》が違っている。しかし、絞りをしめだしたのもずっとあとだ。
 とはいえ、年少にて名をなした、美妙斎の額は、叡智《えいち》に輝いていた。
 ことに、その時分は、紅葉、眉山、思案、九華と、硯友社創立時の友達たちを向うに廻して、金は這入《はい》るが、「蝴蝶」を発表当時ほど言文一致派の気焔《きえん》は上らないで、西鶴《さいかく》研究派の方が、頭角を出して来たうえに、言文一致は、二葉亭四迷《ふたばていしめい》の「浮《うき》くさ」の方が、山田より前だのあとだのと論《あげ》つらわれたり、幸田露伴の「五重の塔」や「風流仏《ふうりゅうぶつ》」に、ぐっと前へ出られてしまってはいたが、美妙斎の優男《やさおとこ》に似合ぬ闘志さかんなのが、錦子には誰よりも勝《まさ》ったものに見えもすれば、スタイルも好きだった。
「先生。」
と、彼女は、離れともない思慕もまじえて、
「あたくし、一生懸命になります。当今《いま》どんな方たちが、女で、小説をお書きになってらっしゃいます。」
 座蒲団《ざぶとん》の隅を折りながら、うつむきがちに、それでも、ハッキリと言った。
「さあ! 樋口一葉《ひぐちいちよう》という人が、勉強しているというが――三宅《みやけ》龍子、小金井《こがねい》喜美子、若松|賤子《しずこ》――その人たちかな。あなたのように、書こうとしている女《ひと》はあるでしょうよ。」
「その方たち、どういう方なのでございます。」
「小金井喜美子さんは、森|鴎外《おうがい》さんの妹さんです。」
「あ。あの『舞姫』をお書きになった、鴎外先生の?」
「小金井さんは、ふらんす[#「ふらんす」に傍点]の翻訳。若松賤子は英語もので、両方とも強《しっ》かりしている。若松賤子は明治女学校の校長さんの夫人で、巌本|嘉志子《かしこ》というのが本名だ。」
 美妙斎は眼を窓の外にやって、この娘を送ってやりながら散歩してもいい日だと思っている。
 窓は八畳の室にあって、八、九年前には、学生だった紅葉山人が同居して、机を並べて、朝から晩まで文学談をやっていたということや、北向きだから冬は寒いということまで、窓をあけてお茶の水の土手を見渡しながら、美妙斎はへだてなく語った。
 そんなに気の合った紅葉が、たった三、四日で、飯田町《いいだまち》の祖父母の宅へ越していってしまったのは、窓が北向きで、寒いばかりではなかった。長く、後家《ごけ》同様に暮している山田の母親と、その姑《しゅうとめ》にあたる、とても口やかましい祖母とがいて、おとなしい孫息子を、引っかかえすぎるのに、煩《うる》さくなって越したのだが、その事だけは、美妙斎はいわなかった。
 神田川にそそぐお茶の水の堀割は、両岸の土手が高く、樹木が鬱蒼《うっそう》として、水戸《みと》家が聘《へい》した朱舜水《しゅしゅんすい》が、小赤壁《しょうせきへき》の名を附したほど、茗渓《めいけい》は幽邃《ゆうすい》の地だった。
 徳川幕府の士人の大学、昌平黌《しょうへいこう》聖堂の森は、まだ面影を残し、高等師範学校の塀《へい》は見えるが、かかったばかりのお茶の水橋は、細く、すっと、好《い》い恰好《かっこう》だ。錦子も立って眺めた。鶯《うぐいす》がささ鳴きをし、目白《めじろ》が枝わたりをしている。人声もきこえぬ静かさで、何処からか謡《うたい》の鼓《つづみ》の音がきこえてくる。
「君は、やっぱり一ツ橋の女子職業学校にしましたか?」
 美妙斎は錦子を、傍におきたい慾望をもって言った。
 東京見物をするならばと誘われたが、錦子は、麹町《こうじまち》の女学校に、おなじ郷里から来ている友達が、外まで迎えに来てくれているはずだからと断った。
 帰りがけに、書いて持って来ていた小説を、美妙の机の横において、目を通してくれといった。山田の門口《かどぐち》まで迎いに来ていたのは進藤孝子という仲のよい友達で、その女の生家も、鶴岡市の医者だった。
 錦子と孝子が逢えば、話はいつも詩のことだった。孝子は新体詩を好んだので、美妙が、美しい詩ばかりでなく、「貧」というのでは、紙屑《かみくず》買いをうたっているといえば、錦子は、坑夫の詩もあるし、車夫の小説もあると負けずに言う。
 この二人が文壇の見立《みたて》を探しだして、面白がって、くらべっこをした。
「凌雲閣《りょううんかく》登壇人(未来の天狗《てんぐ》木葉武者《こっぱむしゃ》)ってのがあるわ。浅草公園、十二階のことでしょ。」
 錦子が展《ひろ》げると、孝子が首をのばして、
「エレベエタア休止中、螺旋《らせん》階にて登りし人――とあるわ。」
と、読みだした。
「頂上十二階までが、春のや主人――坪内逍遥《つぼうちしょうよう》よ。それから、森鴎外、森田|思軒《しけん》、依田学海《よだがくかい》、宮崎|三昧道人《さんまいどうじん》。」
「あたしにも読ましてよ。」
と錦子は引きとって、
「エレベエタアにて一分間に登りし人、頂上十二階まで紅葉山人、露伴子、美妙斎主人――いいわね。」
 錦子は、苺《いちご》のような色の濡《ぬ》れた唇で、
「十一階が二葉亭だわ。それと、漣山人《さざなみさんじん》。十階に広津柳浪《ひろつりゅうろう》と江見水蔭《えみすいいん》よ。五階
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング