田沢稲船
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)緑青《ろくしょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山田|美妙斎《びみょうさい》

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(例)朝※[#「白/八」、第3水準1−14−51]《あさがお》
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       一

 赤と黄と、緑青《ろくしょう》が、白を溶いた絵の具皿のなかで、流れあって、虹《にじ》のように見えたり、彩雲《あやぐも》のように混じたりするのを、
「あら、これ――」
 絵の具皿を持っていた娘は呼んだ。
「山田|美妙斎《びみょうさい》の『蝴蝶《こちょう》』のようだわ。」
 乙姫《おとひめ》さんの竜《たつ》の都からくる春の潮の、海洋《わたつみ》の霞《かすみ》が娘の目に来た。
 山田美妙斎は、尾崎|紅葉《こうよう》、川上|眉山《びざん》たちと共に、硯友社《けんゆうしゃ》を創立したところの眉毛《まゆげ》美しいといわれた文人で、言文一致でものを書きはじめ『国民の友』へ掲載した「蝴蝶」は、いろいろの意味で評判が高かったのだ。
 源平屋島の戦いに、御座船《ござぶね》をはじめ、兵船もその他も海に沈みはてたとき、やんごとなき御女性に仕えていた蝴蝶という若い女も、一たん海の底に沈んだが、思いがけず、なぎさに打上げられた。それは春の日のことで、霞める浦輪《うらわ》には、寄せる白波のざわざわという音ばかり、磯の小貝は花のように光っている閑《のど》かさだった。見る人もなしと、思いがけなく生を得た蝴蝶は、全裸《まはだか》になった――そのあたりを思いだしたのだ。
「あたし、小説を書こう。」
 十七の娘、田沢|錦子《きんこ》は、薬指ににじむ、五彩の色をじっと見ながら、自分にいった。

 空はまっ青で、流れる水はふくらんでいる――
 何処《どこ》にか、雪消《ゆきげ》の匂いを残しながら、梅も、桜も、桃も、山吹《やまぶき》さえも咲き出して、蛙《かわず》の声もきこえてくれば、一足外へ出れば、野では雉子《きじ》もケンケンと叫び、雲雀《ひばり》はせわしなくかけ廻っているという、錦子が溶きかけている絵具皿のとけあった色のような春が、五月まぢかい北の国の、蝶の舞い出る日だった。
 むかしの、出羽《でわ》の郡司《ぐんじ》の娘、小町の容色をひく錦子も、真っ白な肌をもっている、しかも、十七の春であれば、薄もも色ににおってくる血の色のうつくしさに、自分でも見とれることもあるのだった。その生々しさが湧《わ》きあがったとき、この娘は、
 ――なんて拙《まず》いんだろう。
と、自分の描く絵が模写にすぎないのを、腹立たしくなっていた。
 ――この色は出やあしない。こんな、綺麗《きれい》な色は、ちっとも出やあしないじゃないか、残念だが――
 彼女は、自分の腕に喰《く》いつくこともあった。と、そこにパッとにじみだして開いてくる命の花のはなやぎを、どんなふうに色に出したら写せるかと、瞶《みつ》めながら匕《さじ》をなげた。
 匕を投げたといえば、錦子はお医者さまの娘だ。徳川時代には、お匕といえば、御殿医であることがわかり、医者が匕を投げたといえば病人が助からぬということであるし、匕を持つといえば内科医のことだった。これは漢法医が多く、漢薬は、きざんであったのを、盛りあわせて煎《せん》じるから、医者は薬箱をもたせ、薬箱には、柄《え》の永い、細長い平たい匕――連翹《れんぎょう》の花片《はなびら》の小がたのかたちのをもっていたものだ。
 錦子の家は出羽の西田川郡であったが、庄内米、酒田港と、物資の豊かな、鶴岡の市はずれではあり、明治廿年代で西洋医学をとり入れた医院だったから、文化の低い土地では、比較的新智識の家族で、名望もあった。
 ――あたしの画はまずい。
と、思う下から、山田美妙斎の小説は、なんと素《す》ばらしく、女の肉体の豊富さを描きつくしているのだろうと、口惜《くや》しいほどだった。
 錦子は、水に濡《ぬ》れ浸《ひた》った蝴蝶の、光るような、なめらかな肌が、目の前にあるように、眼をよせて眺《なが》めていた。小説の中の蝴蝶も、自分の年とおなじ位だと思うと、彼女は自分の肌を、美妙斎に、描写されたように恥《はずか》しかった。それは、いつぞや、自分のことを言ってやった文《ふみ》に、
 ――体に、脂《あぶら》があると見えて、お風呂《ふろ》にはいった時も、川で泳いだときも、水から出て見ると、水晶の玉のように、パラパラと水をはじいてしまって――
 そんなふうに、書いたこともあった気もするのだ。
 ――ええ、泳ぎますとも、まっぱだかで――とも書いたようだ。
 ――田沢湖は秋田です。うつくしい郡司の娘が、恋人を慕《した》って身を投げたという湖は、それは先生、田沢という姓名からのお誤りでしょう。田沢いなぶねは、ピンピンしています。此処《ここ》には、近くでは、大岸の池というのがあります。あたくし、真っ白な鵬《おおとり》に乗った、あたくしの水浴《みずあみ》の姿を描きたいのですが、駄目《だめ》ですわ――
 そんなふうにも書いたことがあったようだったが――どうだろう、「蝴蝶」は、もっと前に出ているのだ――
 錦子が、いくら呟《つぶや》いても仕方なかった。彼はとうとう大きな溜息《ためいき》をした。
 錦子は、絵の具皿の中から、白と紅《べに》とが解けあったところを、指のさきに掬《すく》いとると、傍《かたわら》の絵絹《えぎぬ》の上へ、くるりと、女の腰の輪かくを一息に丸く描いて、その次には、上の方へもっていってポチリと点を打った盛《も》り上《あがり》をおいた。
 その反対の方へむけて、腕の曲折を、ふっくらとつくると、それは、思いがけない生々しさで錦子の前へ、若い女が横たわって、羞恥《しゅうち》を含んでいる――
「おお、蝴蝶どの、そなたの姿はわらわによう似ていられる――」
 歌舞伎役者のせりふ[#「せりふ」に傍点]もどきで錦子は、満足した自分の体も、そこへ、その通りの姿態《ポーズ》で肘《ひじ》を枕にして、ころがった。
 ――小説にしようか、絵の修業をしようか――まとまりようのない空想が、あとからあとから湧《わ》いてくる。つい、うっとりとしていると、
「あら、これ、何なの?」
 妹がその絵を、見ているのは好いが、その後から母も来る様子なのに、錦子は慌《あわ》てた。
「その、小説の口絵を、真似《まね》たのよ。」
 そう言って妹はごまかせても、母親の眼は恐《こわ》い。絵の具が乾《かわ》かないで、生々して見えるその尻の恰好《かっこう》は、娘の尻の肉つきそのままであることを母親は、一目で見破るであろう。乳首の出ぬ丸いさしぢちは?
 ――おお、まあ、なんてこの娘は、いやな――
と、呆《あき》れて、眼を反《そ》むけながら角立《つのだ》てるに違いはない。
 いつも、いつも、お前はなんて早熟《ませ》ているのだろうと呟《つぶや》く母親には、見られたくなかったので、錦子は跳《はね》おきると、乳房《おちち》は朝※[#「白/八」、第3水準1−14−51]《あさがお》にしてしまい、腰の丸味は盥《たらい》にしてしまった。
 錦子は、まったくませ[#「ませ」に傍点]ていた。売出しの小説作家、山田美妙斎に文通しだした。だが、小説「蝴蝶」の書かれたのは、二、三年前だが、近頃になって、「蝴蝶」の出ていた、『国民の友』の新年附録を、探し出して読みふけり、すっかり魅了され、心酔しつくしてしまった。そして、急に、グイグイ引き寄せられる気持ちになっている。錦子が動かされたのも無理はないほど、美妙斎の「蝴蝶」は、発表された当時も世評が高かったのだ。そのころ仲たがいをしていた尾崎紅葉さえ、宛名《あてな》を、蝴蝶殿へとした公開状で、
[#ここから2字下げ]
かくすべき雪の肌《はだえ》をあらはしてまことにどうも須磨《すま》の浦風
[#ここで字下げ終わり]
と、一首ものしたように、それには挿絵《さしえ》に、渡辺省亭《わたなべせいてい》の日本画の裸体が、類のないことだったので、アッといわせもしたのだった。
 河井酔茗《かわいすいめい》氏の『山田美妙評伝』によると、美妙斎は東京神田柳町に生れ、十歳の時には芝の烏森《からすもり》校から、巴《ともえ》小学校に移り、神童の称があったという。十三歳に府立二中に入学したが、学科はそっちのけで、『太平記』や、『平家物語』をはじめ、江戸時代の草双紙《くさぞうし》の中では馬琴《ばきん》に私淑したとある。芝に生れた尾崎紅葉とは、二中の時おなじ学校で、紅葉が三田英学校から大学予備門にはいると、二級の時に美妙斎が四級にはいり、旧交があたためられて、二人は文学で立とうという決心をあかし合い、しかも、芝からでは遠いというので、美妙斎の家は、学校に近い駿河台《するがだい》に引越して、紅葉も寄宿し、八畳の室《へや》に、二人が机を並べ、そのうちに、おなじ予備門の学生|石橋思案《いしばししあん》も同居し、文壇を風靡《ふうび》した硯友社《けんゆうしゃ》はその三人に、丸岡|九華《きゅうか》氏が加わって創立され、『我楽多文庫《がらくたぶんこ》』第一号が出たのは明治十八年五月二日だと考証されている。
 その石橋思案氏が、後に脳をわずらわれたが、稲舟《いなぶね》女史の話を私にしてくだされたのだった。
 錦子は自分のしたことがおかしくなって、クックッ忍び笑いを洩《も》らしながら、
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ひとり さける のばら あわれ
あかぬ いろを たれか すてん
のばら のばら あかき のばら――
[#ここで字下げ終わり]
と唄《うた》いかけた。この詩も、美妙の「野薔薇《のばら》」というのの一節だったが、妹は、後《うしろ》に立った母親に言った。
「姉さんて、妙な人ねえ。お琴を弾《ひ》いても、唄わないくせに、ねえ。」
 けれど、その妹が、敵は幾万ありとても、すべて烏合《うごう》の勢《せい》なるぞ――という軍歌が、おなじ人が、早く作ったものだということは知らないでいた。
「錦子は、お父さんのお許しが出そうなので跳《はず》んでいるのだよ。」
と、母は、錦子の室《へや》の中を見廻して言った。
「姉さんがいなくなると、さびしいねえ。」
 錦子は、母親が現われたのでさっきからの、躍《おど》るような――火花が指のさきから散るような気持を、凝《じっ》と堪えて、握りしめた手を胸におしつけていたが、思わず
「あら! 東京へ行ける。」
と、感情の、顔に出るのを、さとられまいとしながら、せかせか言った。
「でもね、本当に、美術学校って、女も入学出来るのだろうかって、お父さんは御心配なさってたが。」
「出来ないはずないでしょ。済生《さいせい》学舎(医学校)だって、早くっから、女を入れたのでしょ。」
「そうらしいけれどね。」
 母は、娘を、非凡な才智をもつものと見ている。それは、雪深い国では、何処《どこ》にもちょっと見当らない、薫《かお》りの高い一輪の名花だった。
 この娘を東京へ出して、思うままに修業をさせたら――それこそ小野の小町などは、明治の、才色兼備の娘に名誉を譲るだろう。
 そう思う母人《ははびと》の生れ育った時代は、幕末、明治と進歩進取の世に生れあわせていた。奥羽の各藩もさまざまの艱苦《かんく》の後、会津《あいづ》生れの山川|捨松《すてまつ》は十二歳(後の東大総長山川健次郎男の妹、大山|巌《いわお》公の夫人、徳冨蘆花《とくとみろか》の小説「不如帰《ほととぎす》」では、浪子――本名信子さんといった女の後の母に当る人)、津田英語塾の創立者津田梅子女史は九歳、その他、七、八人の、十七、八歳を頭《かしら》にした一行と、海外へ留学した最初の人を出したりして、その後も、何やかと、幕末からつづいた、新旧の、女丈夫たちに刺戟《しげき》されて来ているので、東京では、もうすっかり急進欧化の反動期にはいっているときに、奥羽の隅《すみ》の家庭人は、かえって、そのころになって動いていた。
「あたしも、
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