と、美妙の手許にあった、薄すべったい、青黒い表紙の雑記帳を、一ひらめくって見た、厭《いや》な思い出もおもいださないことはない。表紙うらに鉛筆のはしり書きで、
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奈《な》まじいにあひ見る事のつれなきに
さりともあはで返されもせず
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 廿四年十一月六日作とあった。あれが、わたしへの、ほんとの美妙の心ではないかとも思い、いえ、そんなことは決してないはずだとも打消した。
 しかし、どうも、それは、はずでばかりはなかったようだ。人の心は微妙であるから、なんとも他《ほか》からはっきりは定《き》められないが、美妙斎はそのころから関係のあった、浅草公園の女、石井|留女《とめじょ》を、九月|尽日《じんじつ》に落籍《らくせき》して、その祝賀を、その、おなじ雑記帳へも書いているのだ。
 この女の人を、後《のち》におっぽりだしたので、『万朝報』でたたかれて、美妙斎は失脚の第一歩を踏んだのだったが、留女を落籍した日は暴風の日であって、一直《いちなお》から料理をとって祝った。茶碗もりや、鯛《たい》の頭附《かしらつ》きの焼もので、赤の飯で囃《はや》したてたのだ。その後、
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