[#ここで字下げ終わり]
と唄《うた》いかけた。この詩も、美妙の「野薔薇《のばら》」というのの一節だったが、妹は、後《うしろ》に立った母親に言った。
「姉さんて、妙な人ねえ。お琴を弾《ひ》いても、唄わないくせに、ねえ。」
 けれど、その妹が、敵は幾万ありとても、すべて烏合《うごう》の勢《せい》なるぞ――という軍歌が、おなじ人が、早く作ったものだということは知らないでいた。
「錦子は、お父さんのお許しが出そうなので跳《はず》んでいるのだよ。」
と、母は、錦子の室《へや》の中を見廻して言った。
「姉さんがいなくなると、さびしいねえ。」
 錦子は、母親が現われたのでさっきからの、躍《おど》るような――火花が指のさきから散るような気持を、凝《じっ》と堪えて、握りしめた手を胸におしつけていたが、思わず
「あら! 東京へ行ける。」
と、感情の、顔に出るのを、さとられまいとしながら、せかせか言った。
「でもね、本当に、美術学校って、女も入学出来るのだろうかって、お父さんは御心配なさってたが。」
「出来ないはずないでしょ。済生《さいせい》学舎(医学校)だって、早くっから、女を入れたのでしょ。」
「そうらしいけれどね。」
 母は、娘を、非凡な才智をもつものと見ている。それは、雪深い国では、何処《どこ》にもちょっと見当らない、薫《かお》りの高い一輪の名花だった。
 この娘を東京へ出して、思うままに修業をさせたら――それこそ小野の小町などは、明治の、才色兼備の娘に名誉を譲るだろう。
 そう思う母人《ははびと》の生れ育った時代は、幕末、明治と進歩進取の世に生れあわせていた。奥羽の各藩もさまざまの艱苦《かんく》の後、会津《あいづ》生れの山川|捨松《すてまつ》は十二歳(後の東大総長山川健次郎男の妹、大山|巌《いわお》公の夫人、徳冨蘆花《とくとみろか》の小説「不如帰《ほととぎす》」では、浪子――本名信子さんといった女の後の母に当る人)、津田英語塾の創立者津田梅子女史は九歳、その他、七、八人の、十七、八歳を頭《かしら》にした一行と、海外へ留学した最初の人を出したりして、その後も、何やかと、幕末からつづいた、新旧の、女丈夫たちに刺戟《しげき》されて来ているので、東京では、もうすっかり急進欧化の反動期にはいっているときに、奥羽の隅《すみ》の家庭人は、かえって、そのころになって動いていた。
「あたしも、なるたけ、出してあげたいと、骨を折っているけれど――」
 彼女は、娘の描いた、おとなしい絵を手にとって眺めて沈呻《ちんしん》した。
 ――この娘はもっと強い子だが――
 琴を弾《ひ》かせても黙って弾《ひ》いている。あれは、あの時、胸のなかに、何か、物足らない思いが一ぱいに詰まっているのだ。この娘は、何も言わないが、どんなことを考えているか知れたものではないと、母親には、それが心配なのだ。
 けれど、錦子が琴をかき鳴らしても唄わないのは、邪念があったのではない。琴の糸の奏《かな》で出すあや[#「あや」に傍点]は、彼女の空想を一ぱいにふくらませ、どの芽から摘んでいいかわからない想いが湧上《わきあが》るのだ。どう整理してよいか、まだ、そのわけが分明《はっきり》としないものが醗酵《はっこう》しかけてくるのだ。だから彼女は、うっとりとしたような、不機嫌のような、押だまったままでいるのだ。だがとうとう、錦子は、朝夕眺めた、鳥海山も羽黒山も後にして、出京することになった。

       二

 山田武太郎と表札の出ている、美妙斎の住居《すまい》を訪れた、みちのく少女《おとめ》のいなぶねは、田舎娘が来たのかと、気にもかけなかったであろう美妙に、ハッと目を瞶《みは》らせた。
 美妙は、たしか二十歳ごろから四、五年の間、女学生向きの『いらつめ』という月刊雑誌を出したりして、若い女性たちとも、顔をあわせることも多くあったし、その時分も、浅草公園裏の薄茶の店の、石井おとめとの関係もあったのだが、この小説家志願娘には心をひかれた。
 ――いなにはあらぬいなぶねの――
 そんな句も、詩人美妙の胸には、ふと浮かんだかも知れない。
「稲舟《いなぶね》って好い名だな。錦子さんでも好いけれど、最上川《もがみがわ》がそばなのでしょう。みちのくというと、最上川だの、名取川だの、衣川《ころもがわ》だの、北上川《きたかみがわ》だのって、なつかしい川の名が多い。父が、ずっと、あっちにいたからかも知れないが――」
 美妙は、無口な娘を前にして、そんなことをいった。
 美妙斎のお父さんは、維新前後奥州の方にいっていて、美妙の武太郎は明治元年の夏留守中に生れたのだった。その後、長野県の方にお父さんは警部をつとめていて、美妙は、やかましい祖母《おばあ》さんと、お母さんに育てられた、内気な、おとなしい息子《むすこ》だっ
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