人を慕《した》って身を投げたという湖は、それは先生、田沢という姓名からのお誤りでしょう。田沢いなぶねは、ピンピンしています。此処《ここ》には、近くでは、大岸の池というのがあります。あたくし、真っ白な鵬《おおとり》に乗った、あたくしの水浴《みずあみ》の姿を描きたいのですが、駄目《だめ》ですわ――
そんなふうにも書いたことがあったようだったが――どうだろう、「蝴蝶」は、もっと前に出ているのだ――
錦子が、いくら呟《つぶや》いても仕方なかった。彼はとうとう大きな溜息《ためいき》をした。
錦子は、絵の具皿の中から、白と紅《べに》とが解けあったところを、指のさきに掬《すく》いとると、傍《かたわら》の絵絹《えぎぬ》の上へ、くるりと、女の腰の輪かくを一息に丸く描いて、その次には、上の方へもっていってポチリと点を打った盛《も》り上《あがり》をおいた。
その反対の方へむけて、腕の曲折を、ふっくらとつくると、それは、思いがけない生々しさで錦子の前へ、若い女が横たわって、羞恥《しゅうち》を含んでいる――
「おお、蝴蝶どの、そなたの姿はわらわによう似ていられる――」
歌舞伎役者のせりふ[#「せりふ」に傍点]もどきで錦子は、満足した自分の体も、そこへ、その通りの姿態《ポーズ》で肘《ひじ》を枕にして、ころがった。
――小説にしようか、絵の修業をしようか――まとまりようのない空想が、あとからあとから湧《わ》いてくる。つい、うっとりとしていると、
「あら、これ、何なの?」
妹がその絵を、見ているのは好いが、その後から母も来る様子なのに、錦子は慌《あわ》てた。
「その、小説の口絵を、真似《まね》たのよ。」
そう言って妹はごまかせても、母親の眼は恐《こわ》い。絵の具が乾《かわ》かないで、生々して見えるその尻の恰好《かっこう》は、娘の尻の肉つきそのままであることを母親は、一目で見破るであろう。乳首の出ぬ丸いさしぢちは?
――おお、まあ、なんてこの娘は、いやな――
と、呆《あき》れて、眼を反《そ》むけながら角立《つのだ》てるに違いはない。
いつも、いつも、お前はなんて早熟《ませ》ているのだろうと呟《つぶや》く母親には、見られたくなかったので、錦子は跳《はね》おきると、乳房《おちち》は朝※[#「白/八」、第3水準1−14−51]《あさがお》にしてしまい、腰の丸味は盥《たらい》にしてしまった。
錦子は、まったくませ[#「ませ」に傍点]ていた。売出しの小説作家、山田美妙斎に文通しだした。だが、小説「蝴蝶」の書かれたのは、二、三年前だが、近頃になって、「蝴蝶」の出ていた、『国民の友』の新年附録を、探し出して読みふけり、すっかり魅了され、心酔しつくしてしまった。そして、急に、グイグイ引き寄せられる気持ちになっている。錦子が動かされたのも無理はないほど、美妙斎の「蝴蝶」は、発表された当時も世評が高かったのだ。そのころ仲たがいをしていた尾崎紅葉さえ、宛名《あてな》を、蝴蝶殿へとした公開状で、
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かくすべき雪の肌《はだえ》をあらはしてまことにどうも須磨《すま》の浦風
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と、一首ものしたように、それには挿絵《さしえ》に、渡辺省亭《わたなべせいてい》の日本画の裸体が、類のないことだったので、アッといわせもしたのだった。
河井酔茗《かわいすいめい》氏の『山田美妙評伝』によると、美妙斎は東京神田柳町に生れ、十歳の時には芝の烏森《からすもり》校から、巴《ともえ》小学校に移り、神童の称があったという。十三歳に府立二中に入学したが、学科はそっちのけで、『太平記』や、『平家物語』をはじめ、江戸時代の草双紙《くさぞうし》の中では馬琴《ばきん》に私淑したとある。芝に生れた尾崎紅葉とは、二中の時おなじ学校で、紅葉が三田英学校から大学予備門にはいると、二級の時に美妙斎が四級にはいり、旧交があたためられて、二人は文学で立とうという決心をあかし合い、しかも、芝からでは遠いというので、美妙斎の家は、学校に近い駿河台《するがだい》に引越して、紅葉も寄宿し、八畳の室《へや》に、二人が机を並べ、そのうちに、おなじ予備門の学生|石橋思案《いしばししあん》も同居し、文壇を風靡《ふうび》した硯友社《けんゆうしゃ》はその三人に、丸岡|九華《きゅうか》氏が加わって創立され、『我楽多文庫《がらくたぶんこ》』第一号が出たのは明治十八年五月二日だと考証されている。
その石橋思案氏が、後に脳をわずらわれたが、稲舟《いなぶね》女史の話を私にしてくだされたのだった。
錦子は自分のしたことがおかしくなって、クックッ忍び笑いを洩《も》らしながら、
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ひとり さける のばら あわれ
あかぬ いろを たれか すてん
のばら のばら あかき のばら――
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