た。
父親が懐《なつか》しかった少年時を思出して、美妙は、あっちの方の川の名など数えたりして見た。
「絵はやめてしまうのですか?」
「ええ。」
「小説を書こうというの?」
「ええ。」
十七でしたね、と訊《き》いてから美妙はおもしろい暗合を思い出していた。
十七という年齢《とし》は、才女に、なにか不思議なつながりを持つのか、中島|湘煙《しょうえん》女史(自由党の箱入娘とよばれた岸田|俊子《としこ》)も、十七歳のとき宮中へ召され、下田《しもだ》歌子女史も、まだ平尾|鉐子《せきこ》といった時分、十七で宮中官女に召され、歌子という名をたまわったのだ。そのほかにと考えながら、
「田辺龍子《たなべたつこ》(三宅《みやけ》龍子・雪嶺《せつれい》氏夫人)さんも十七位だったかな、小説を書きはじめたのは、そうだ、木村|曙《あけぼの》女史も十七からだ。」
と、日本の、明治の、巾幗《きんかく》小説家たちの、創世期時代の人々の名をあげたが、それは、そんな古いことではなかったから、錦子も、おぼろげながら知っていた。
「あたくしに、書けましょうか。」
唐人髷《とうじんまげ》の、艶《つや》やかなのと、花櫛《はなぐし》ばかりを見せているように、うつむいてばかりいる娘は、その時顔をあげて、正面に美妙斎と眼を合わせた。
生際《はえぎわ》の、クッキリした、白い額が、はずかしさに顔中赤味をさしたので、うつくしく匂った。女らしさがすぎるほど、女らしい女だった。
肉附きの好い丸顔で――着物は何を着ていたかわからないが、彼女が次の年に「白薔薇《しろばら》」を書いたなかに、赤襟、唐人髷の美しいお嬢さまが、九段《くだん》の坂の上をもの思いつつ歩く姿を、人の目につく黄八丈《きはちじょう》の、一ツ小袖に藤色紋|縮緬《ちりめん》の被布《ひふ》をかさね――とあるのは、尤《もっと》も当時の好みであったから、それを応用しても間違いはなかろう。唐人髷が大好きだったことは友達が知っている。
美妙斎は二十七になった美丈夫だ。白皙《はくせき》、黒髪、長身で、おとなしやかな坊ちゃん育ちも、彼の覇気《はき》は、かなり自由に伸びて、雑誌『都《みやこ》の花』主幹として、日本橋区本町の金港堂《きんこうどう》書店から十分な月給をとっていたうえに、創作の収入も多かった。
裄《ゆき》を、いくら伸して見ても、女の着物の仕立は、一尺七寸五、六分より裄は出ない。
大柄《おおがら》な娘というのではないが、錦子はシックリした肉附きだ。丸い肩の上に、五分ほどつまんだ肩上げが、地方から出て来た娘々して、何処か鄙《ひな》びているのを、美妙は、掘りたての、土の着いている竹の子のように、皮を剥《む》いていった下の、新鮮なものを感じていた。
立った姿も、思いがけなく、すんなり[#「すんなり」に傍点]しているのに、この娘のアクをおとしたならば、素晴らしいと見た。
この娘が、無口でいて、体で、何か雄弁に語っているのに気がつくと、紙へ書かせたならば、無口なだけに、案外大胆なことを書くのではないかと思ったのだろう。
「絵を習うよりは、君は、書いた方が好《い》いかも知れないね」
と、力を入れてやっても好《い》いふうに言った。
アクをおとしたならば、と美妙は錦子を見たが、そういう美妙もアクのある好みの方だった。何かの好みが、紅葉とは違っていた。
それは、紅葉は町の子であって、美妙は神田ッ子でも、警部さんの息子で、家庭が、京阪でいうモッサリしていたからでもあろうが、大学予備門にいた、十九歳ごろから、小説で売出してからでも、長靴好きでよく穿《は》いていたということだ。
だがまた、それは、明治の初期から二十年ころまではそうしたふうがハイカラだったのだ。ハイカラ――高襟は、もっと、ずっと後日で生れた言葉だが、言い現《あらわ》すのに都合が好いから借用する。芝居の、黙阿弥《もくあみ》もので見てもわかるが、房《ふ》っさりした散髪を一握り額にこぼして、シャツを着て長靴を穿《は》いているのが、文明開化人だ。しかも、金巾《カナキン》のポッサリした兵児帯《へこおび》を締《しめ》て、ダラリと尻《しり》へ垂らしている。これも後には、白か紫の唐縮緬《モスリン》になり、哀れなほど腰の弱い安|縮緬《ちりめん》や、羽二重《はぶたえ》絞りの猫じゃらしになったが、どんな本絞りの鹿《か》の子《こ》でも、ぐいと締る下町ッ子とは、何処か肌合《はだあい》が違っている。しかし、絞りをしめだしたのもずっとあとだ。
とはいえ、年少にて名をなした、美妙斎の額は、叡智《えいち》に輝いていた。
ことに、その時分は、紅葉、眉山、思案、九華と、硯友社創立時の友達たちを向うに廻して、金は這入《はい》るが、「蝴蝶」を発表当時ほど言文一致派の気焔《きえん》は上らないで、西鶴《さい
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