に越すと、美妙が浅草公園の女を騙《だま》したという風説がやかましくなった。長い間だましていて、二千円からの金を奪ったというような悪評がたったのだった。
 赤い紙の、四頁だった『万朝報』は大変売れる新聞だった。そこの記事にそうしたことが載っていたのを、美妙が反駁《はんばく》した。
 妖艶《ようえん》の巣窟《そうくつ》の浅草公園で、ことに腕前の凄《すご》いといわれたおとめのことは、種にしようと思ったから近づいたのだ。三五《さんご》年の研究で、人事千百がわかったから、久し振りで書こうとおもっていたところだ。そこへ新聞記事になって紹介されたのは、好い前触れ太鼓だから、責めもしない、怒りもしない。丁度よいから早速そのままを昨日《きのう》から書出した。
 というのだった。それを文士モラル問題として、手厳しく、というより致命的にやっつけたのが、『早稲田《わせだ》文学』だった。
「裸蝴蝶」の問題の時には、
 ――これより先、裸美の画|坊間《ぼうかん》の絵草紙屋《えぞうしや》に一ツさがり、遂に沢山さがる。道徳家|慨《なげ》き、美術家|呆《あき》れ、兵士喜んで買い、書生ソッと買う。而《しか》してその由来を『国民の友』の初刷に帰する者あり。吾人《ごじん》かつてゾラの仏国に出《い》でたるを仏国の腐敗に帰せしものあるを聞けり。由来すると説くものを聞かず――
 と「小羊《こひつじ》漫言」に『早稲田文学』の総帥坪内逍遥は書いたが、おとめ問題での美妙の反駁文には手厳しかった。「小説家は実験を名として不義を行うの権利ありや」という表題で仮借《かしゃく》なくやった。
 かなり誤っている記事であろうが、それを明らかに正誤もしないで、恬然《てんぜん》、また冷然、否むしろ揚々として自得の色あるはどうか、文壇に著名なる氏が、一身に負える醜名は、小説壇全体の醜声悪名とならざるを期せざるなりと責め、――いわゆる実験とは如何、不義醜徳を観察するの謂《いい》か、みずからこれを行うの謂か、もし後者なりとせば、窃盗《せっとう》の内秘を描かんとするときは、まず窃盗たり、姦婦《かんぷ》の心術を写さんとするときは、みずからまず姦通を試みざるべからず――
と、悪虐を描くためには、悪虐し、殺人にはみずから殺人するか、そんな世間法《せけんほう》な賊は、文壇にどんな功があろうとも齢《よわい》するを屑《いさぎ》よしとしない。特にそんな奴には警察が厳重にしてくれ。だが科学者のいう所の観察であろうと信じている。アジソンの「スペクテートル」における観察者の義であろうと思う。ならば、観察者は清浄|無垢《むく》の傍観者であり、潔白《けっぱく》雪の如くなるべきやと、堂々とやった。
 美妙も思いがけなかったであろうが、錦子は泣くに泣けない激しい失望だった。

 浅草公園の売茶の店は、仁王門のわきの、粂《くめ》の平内《へいない》の前に、弁天山へ寄って、昔の十二軒の名で、たった二軒しか残っていなかった。
 観音堂裏には、江崎写真館の前側に、二、三軒あった。あとは池の廻りや花屋敷の近所に、堅気《かたぎ》な茶店で吹きさらしの店さきに、今戸焼の猫の火入れをおいて、牀几《しょうぎ》を出していた。
 銘酒屋は、十九年の裏|田圃《たんぼ》(六区)が、赤い仕着《しきせ》の懲役人を使用して埋め立てられてから出来た、新商売だった。
 石井とめという女は、売茶女だとも、銘酒屋女だともいうが、ともかく美妙は、おとめを二百円の身《み》の代金《しろきん》をだして、月三十円かの手当をやり、物見遊山《ものみゆさん》にも連れ廻り、着ものもかってあてがった――後のことは分らないが、はじめの支出を書いた日記を、錦子に開いて見せて、
「僕が、こんなことで厭になったのなら仕方がないが、君だけは、小説家としての僕を、知ってくれるはずだが――」
と、怨《うら》みっぽくさえいうのだった。
 他人が見捨るなら、あたしは――という、不思議な反抗心が、一度は美妙に失望した錦子に、美妙を救おうという気を起させた。
 そして、そう思ったことが錦子にとって、今までにない楽しさをもって来た。天涯孤立となった美妙は、錦子を、いなぶね女史として無二の話相手にしだした。錦子にとっては嬉しいことばかりだった。愛されるばかりでなく、急に一人の文学者として、美妙に遇されるようになったのだから――
 人の噂《うわさ》も七十五日、あれまでにやられると美妙斎も復活しだした。稲舟も『文芸倶楽部』が博文館から発行されると、前に書いてあった「医学終業」を出して、目をつけられるようになった。「白ばら」は最初《はじめ》ての閨秀《けいしゅう》作家号に載《の》るし、「小町湯」や美妙との合作もつづいて発表された。
 稲舟の作品は、美妙を離れないともいわれた。美妙に、令嬢|気質《かたぎ》を捨てろとでもいわれた
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