て怒ったの。お嬢さんへって宛名《あてな》で、随分しどいこと書いてよこしたのですって。あたしそれ見せてもらって、小説のなかへ入れるわ。」
とも錦子はいったりした。こんど来て見ると、美妙斎が、改進新聞社の勤めもやめてしまい、金港堂の『都の花』も廃刊になり、家の中が苦しそうだともいった。
改良半紙へ罫《けい》を引いた下敷を入れて、いなぶねと署名したまま題も置かず、一行も書けない白紙へむかって、錦子は呻吟《うな》っている日がつづいた。
墨を摺《す》って、細筆を幾たび濡《ぬ》らしても、筆さきも硯《すずり》の岡も、乾《かわ》いて、墨がピカピカ光ってしまうだけだった。
錦子は、そんな、ムシャクシャしたあとで、そんなにまで書けない自分を嘆きに、美妙斎の書斎を訪ずれると、今夜も留守、今夜も留守という日がつづいた。
錦子は、肩懸けでも編んで、気持ちをまぎらそうとしたが、毛糸を編む手許になんぞ心は集中されなんかしなかった。ウーとうなると、グイと糸をひっぱって、編棒で突きさしたりして、丸い毛糸の玉を、むしゃくしゃに捻《ねじ》りあげてしまった。
「おそろしくヒステリーになってるね。」
と、そんなあとで逢うと、美妙はハグラかすように言う。
「随分お留守ですのね。」
「ええね。」
美妙はしゃあしゃあと答えて、
「別荘行きも、もうお止《や》めさ。」
と、うふ、うふと胸のなかで、自分だけで笑って、別荘なんぞ、何処にあるのかと聞くと、
「それは言えんさ、それにもう、すでに過去のことだ。」
いきなり、錦子の両の頬のえくぼ[#「えくぼ」に傍点]を、両方の人差指で、はさむようにキュッと押して、
「怒ってるの。」
と顔をもっていった。
その手を払って、錦子は顔を反《そら》した。細《ほそ》った横顔にも、弾力のない頬《ほお》の肉にも、懊悩《おうのう》のかげはにじみ出ているのだが、美妙は、手のうらをかえすように別のことを冷たく言った。
「此処《ここ》の家も、もう越すんだ。」
錦子はそれをきくと、拗《すね》てなんぞいられなくなって、すぐその話の筋へ引きこまれていった。
「君は何故《なぜ》っていうのですか。何故ってね。僕は、このごろ四面|楚歌《そか》さ。貧乏になったのも知ってるでしょう。何にも目ぼしい作書いてないものね。そりゃあ、演劇改良会をつくろうと思って、脚本なんぞ書いたりしてはいるがね、白い眼を剥《む》いてる奴があるから――落目さ。そりゃあ、僕だって、このままでないという事は、自信はあるけれども。」
「どうしても、このお家《うち》を、お離れにならなければ、いけませんの。」
不自由なく育った錦子には、住居《すまい》を売って立退《たちの》くということは、没落ということを、眼で見ることだと思った。
「あたしが、いけなかったのでしょうか。」
と、自分の責《せめ》のように、家のなかを見廻した。小説修業の女弟子などが出はいりするのが、美妙が軽薄才子のように罵《ののし》られる種《たね》なのではないかと案じた。
「そんなことは、どうでもいいさ。この辺はね、金満家の住居や、別荘には――別荘って、妾宅《しょうたく》だよ。」
とニヤリとして、
「閑静で、便利でもって来いの土地さ。景色は好いし、われわれふぜいのボロ家は、だんだんなくなるさ。」
だから、今日は書斎の整理をすこし手伝ってもらおうかといった。
「ここのお室《へや》、なつかしくって――」
錦子が湿っぽくなるのを、
「君がはじめて来てくれたのは、二十四年だったかね。そうそう、君をおくった帰途《かえり》に、巡査に咎《とが》められたことがあったっけなあ。」
「あら、そんなことなんか、なかったわ。」
錦子は思い出にカッカする頬をおさえた。
「あるよ、山下町だったかでも査公に一ぺん咎《とが》められたし、たしかこの家の門前でも咎められたよ。咄《はな》さなかったかねえ、自分の家へ、盗人《ぬすっと》にはいる奴もないじゃないか。」
フッと、莨《タバコ》の煙を、錦子に吹きかけたが
「ハア? 違ったかな。すると、あれは静《しず》嬢だったかな。そうだ、思い出した、前の日に伯母《おば》さんにぶたれたと言ったっけ。」
こともなげに言いはしたが、錦子の血がサッと逆流するのを意地わるくはかるように、
「なにを妙な顔をしてんのさ。そんな女、今ごろいるもんかね。みんな追っぱらっちゃった。」
バタバタそこらの書籍を引っぱり出して抛《ほう》り出しながら、
「あ、こんないたずら書きがしてある。見たまえ。」
眼をよせて考えこんでしまっている錦子の手をグイと引っぱって差しつけたのは、
労役を恥《はじ》ぬを妻とする。芸妓《げいしゃ》前髪を気にする。と二行にならべて書いてある美妙の落書したものだった。
間もなく、小石川久堅町《こいしかわひさかたまち》
前へ
次へ
全16ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング