しているのですの。だから、この頃は写真師にでもなろうかと考えていますからって断ったの。無理じゃあないでしょ。」
と言いたした。その裏に、美妙にひかれるもののある事をさとられまいとして、雄弁だった。
「色は白いけれど変なのよ、猫背《ねこぜ》なのよ、桜津っていうので、うちの女中なんか殿様だの御前《ごぜん》だのってほど、華族の若様ぜんとしているのよ。桜津|三位中将《さんみちゅうじょう》って渾名《あだな》なの。」
「それはあなたが附けたのでしょ。」
と孝子もおかしいけれど叱るようにいった。
「嘘よ、お正月の歌がるたをした時、負けたんで額に墨で黛《まゆずみ》を描かれたからよ。」
 いたずらっぽくはいったが、その男は漢学の造詣《ぞうけい》も深く、書家でもあった。錦子が、北斎《ほくさい》の描いたという楊貴妃《ようきひ》の幅《ふく》が気に入って、父にねだって手に入れた時、それにあう文字を額にほしいと思って、『文選《もんぜん》』や『卓氏藻林《たくしそうりん》』や、『白氏文集《はくしもんじゅう》』から経巻まで引摺《ひきず》りだして見たが、気に入った句が拾いだせないので、疳癪《かんしゃく》をおこし、取りちらかした書籍《しょもつ》を、手あたり次第に引っつかんで投《ほう》りだしたとき、ふとした動機で桜津が思いちがいをしたのだった。
「あたしね、怒りっぽくなったり飽《あき》っぽくなったりするって言ったでしょ。その時も、欠伸《あくび》しながら写真帳を枕にして、だらしなく寝ころんでいたの。そしてね、おっ放《ぽ》り出した本を引きよせて見ると、大好な長恨歌《ちょうごんか》の、夕殿蛍飛思悄然という句が、すぐあったじゃないの。だから、それ書いて頂戴《ちょうだい》って、桜津に頼んだの。それをね、すっかり思いちがいしてしまったのよ。」
と、錦子は桜津という男が、何をたのんでも、はっきりしない男だから、一ヶ月もたたなければ書いて来まいと思っていたらば、すぐに書いて来て、嬉しそうにニタニタしながら、不出来ですがといったのは好いが、こんな珍本を見つけましたからって、おいていった和本のなかへ、艶書《えんしょ》を入れて来たりして、それからは、一日に二度も来るようになったのだと、困ったというふうに話した。
 孝子は、錦子が、随分変ったなあと、しげしげと見詰めていた。自分でも手紙に、我儘《わがまま》になったと書いてはよこしたが、東京へ出してもらいたいために、親たちに厭《いや》がられるようにしたのではないかとさえ思った。小説が書けないということと、恋心というものが、そんなに悪《あく》どい苦しみだとは、孝子には察しもつかなかったが、桜津が自分への思慕《しぼ》だと、思いちがいをした、長恨歌の、夕殿蛍飛思悄然という句を選みだしたということには、そんなものかなあという、仄《ほのか》な、ほんのりとした、くゆりを、思いしみないでもなかった。
「だけど、あなた、山田さんと結婚する?」
「そんなこと、考えてもいないわ。」
 そうはいっても、錦子は悩ましげだった。
「小説書いて、独立出来る?」
「だから、あたし、医学終業という題のは、そう思って出京した娘が、女義太夫になってしまうことに書いて見たの。」
 ふと、二人の眼のなかには、桜の花と呼ばれた娘義太夫の竹本綾之助《たけもとあやのすけ》や、藤の花の越子《こしこ》や、桃の花の小土佐《こどさ》が乗っている人力車の、車輪や泥除《どろよ》けに取りついたり、後押《あとおし》をしたりして、懸持《かけも》ちの席亭《せき》から席亭へと、御神輿《おみこし》のように、人力車を担《かつ》いでゆくようにする、贔屓《ひいき》の書生たちが、席へ陣取ると、前にいっている仲間と一緒になって、下足札《げそくふだ》で煙草盆を叩《たた》いて、三味線にあわせて調子をとり、綾之助なら綾之助が、さわりのところで首を振ると、ドウスルドウスルと叫ぶという、女芸人たちの、ばからしいほどな、素晴らしい人気を思いうかべてもいた。
「でも、あたし、どうしても、やって見るつもりなの。」
 錦子は自分の胸に、たしかめるように、噛《か》みしめるように言っているのが、孝子には悲しくきかれた。
「女がなんかしていこうっての、きっと、厭なことも多いでしょうよ。どんな厭なことでも、忍耐《がまん》出来る?」
「どんなことだって、堪えるわ。」
 その時、そうは言いきった錦子だったけれど、美妙斎との交渉が深まってくると、堪えきれないことが沢山あった。
 おとなしい錦子が、書くものや、上《うわ》っ面《つら》だけではあろうが、なんとなく莫蓮《ばくれん》になって来た。美妙斎の影響だと、孝子は思わないではいられなかった。
「あたしの写真をね、どうしてそんな場所《ところ》へもってらっしゃったのか、芸妓《げいしゃ》が拾ってね、あてつけだっ
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