目通過中に川上|眉山人《びざんじん》がいる。いい気味だわ。」
「どうして。」
と孝子は笑った。
「硯友社だからでしょ。」
「投書家って、よく何か知っているものね。ねえ、この凌雲閣の登りかたで、古い人のことも解るわねえ。」
それは錦子のいう通りだった。彼女たちが見ている十二階登壇人の続きには、
開業以前、建築中より登壇したる人というのに、末松青萍《すえまつせいひょう》、福地|桜痴《おうち》、矢野|竜渓《りゅうけい》、末広鉄腸《すえひろてつちょう》がある。
夫松さんは伊藤博文の愛婿《あいせい》で、若い時から非常な秀才と目されていた人だったという。明治十二、三年時分――もっと早くからかも知れない――演劇改良、国立劇場設立をとなえている。桜痴|居士《こじ》は、現今の歌舞伎座を創立し、九代目団十郎のために、いわゆる腹芸の新脚本を作り、その中で今でも諸方でやる「春雨傘《はるさめがさ》」が、市川家十八番の「助六」をきか[#「きか」に傍点]せて、蔵前《くらまえ》の札差《ふださし》町人、大口屋|暁雨《ぎょうう》の侠気《きょうき》と、男達《おとこだて》釣鐘庄兵衛の鋭い気魄《きはく》を持って生れながら、身分ちがいの故に腹を切るという、その頃では、まだ濃厚に残っていた差別待遇を諷《ふう》した作を残している。
その芝居へ出てくる、葛城太夫《かつらぎたゆう》と、丁山《ちょうざん》という二人の遊女が、吉原全盛期の、おなじ張《はり》と意気地《いきじ》をたっとぶ女を出して、太夫と二枚目、品位と伝法《でんぽう》との型を対立させて見せてくれた。そしてそれには丁度よく美しく品位ある中村歌右衛門や、故人の沢村源之助という、伝法肌《でんぽうはだ》な打ってつけの役者がいた。
末広鉄腸は、早く「渓間の姫百合[#「渓間の姫百合」に「(ママ)」の注記]」を出して、明治小説界の最も先駆者だが、その人たちは学者であり、政治家であり、社会人としても重きをなしていたから、十二階の高さにも、建築前に達していたというのであろう。
事務員に黒岩涙香《くろいわるいこう》小史がいる。『万朝報《よろずちょうほう》』の建立者で、ユーゴーの「ミゼラブル」や、その他「モンテ・クリスト」をはじめ、沢山の翻訳があって、ああしたものを、その頃の一般大衆にも読ませてくれた恩人だった。
奥山閣から――花屋敷とよばれた中にあった、宇治の鳳凰堂《ほうおうどう》のような五層楼――凌雲閣を睨《にら》む人に正直正太夫《しょうじきしょうだゆう》の緑雨醒客《りょくうせいきゃく》のあるのも面白い。
上野山から眺めている連中のなかには、不知庵主人内田|魯庵《ろあん》があり、漢詩の大家で、業病《ごうびょう》にかかり妹の曾恵子《そえこ》を熱愛していた義弟勇三郎がその病の特効薬だときいて、他人の尻肉を斬《き》りとったりしたのち、死刑になった事件を引き起したりした、気の毒な野口|寧斎《ねいさい》がある。
「ちょっと、ちょっと、これ見ない? 見たくなければ見せない。」
と、孝子が、ヒラヒラと見せびらかした一枚には「明治文学界八犬士」の見立《みたて》がある。滝沢|馬琴《ばきん》の有名な作、八犬伝の八犬士の気質|風貌《ふうぼう》を、明治文壇第一期の人々に見立てたのだ。
「あら! 犬江親兵衛が美妙斎よ。」
と、錦子はよろこんだ。親兵衛は一番若くって、ピチピチしている人物だった。
その親兵衛が美妙で、色ならば緑、草木ならば豊後梅《ぶんごうめ》だとある。
「豊後梅は、実が大きくって、生で食べても、梅干にしてもおいしい。」
「そんな、自慢ばかりしていないで、他《ほか》のも読んでよ。」
と、孝子は笑った。
犬山|道節《どうせつ》が森鴎外で、色は黒、花では紫苑《しおん》。犬飼現八《いぬかいげんぱち》は森田思軒で、紫に猿猴杉《えんこうすぎ》。犬塚|信乃《しの》が尾崎紅葉で緋色《ひいろ》と芙蓉《ふよう》。犬田|小文吾《こぶんご》が幸田露伴、栗とカリン。大法師が坪内逍遥で白とタコ。
「緑は、すっきりしていて好いけれど――もうちっと。」
と錦子が色に不服をいうと、孝子が「花見立」というのから、
「桃よ、美妙斎は桃よ、紅葉は桜見立よ。」
と選《え》りだした。
三
錦子は出京してから、一ツ橋の学校にも近いので、神田|猿楽町《さるがくちょう》の親戚《しんせき》の家に泊っていた。
小さい家ではあったが、黒塀の中から、深張りの洋傘《こうもり》をさしたりして、錦子が出てくると、附近には法律学校や医学校の書生が多かったので、目をひいた。
駿河台《するがだい》の山田の家とはいくらも距離がなかったから、自然と足近くなっていった。美妙は文学者の話をよくしてくれた。そのうちに、手を入れてやった錦子の小説を、発表してくれるとも言った。
駿河台
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