の東紅梅町には、尼古来《ニコライ》教会が落成して間もなかった。あんな高台へ、あんな高い建築を許して勿体《もったい》なくも皇居のお屋根まで見えると、憤慨するものもあったほど巍然《ぎぜん》とした、石の壁と、銅|瓦《がわら》の、塔の屋根は尖《とが》っているが円く、妙致を極めたものだった。
「昔だと、南蛮寺とでも、いったのでしょうね。これがニコライ寺さ。露西亜《ロシア》の国教です。日本へ伝道に来た坊さんの名をとって呼んでるけれど、ほんとは、基督《キリスト》復活聖堂というのですと。」
と、広壮な、寺院の廻りを、並んで歩きながら、美妙斎は、鐘楼の高さを、百二十五尺あるのだと語りながら、
「そういえば、あなたの髪の毛は赤いね。」
と、洗い髪をそのまま、チョンピンにして、白い大幅のリボンを、額の上へ、大きな蝶のように結んで、紫の袴《はかま》を胸高《むなたか》に穿《は》いている錦子を凝《じっ》と見て、
「稲舟なんていうより、君がそうしていると、この建築物によく似合っている。ほんとに好《い》い、ほんとに好い。」
と、すこし離れて、透《すか》して見るようにした。
「おかしな女《ひと》だ。日本|髷《がみ》を結《ゆ》うと黒い毛なのにね。」
「いいえ、赤っ毛なんですわ。」
 錦子が、はずかしがって項垂《うなだ》れると、頸《くびすじ》から背中の生毛《うぶげ》が金色に覗《のぞ》かれた。
 片翳《かたかげ》りの、午後の街《まち》ではあったが、人っこ一人通らない閑静さで、蜥蜴《とかげ》が、チョロチョロと歩道を横ぎってゆくほどだった。美妙斎はおさえきれないように、いたずらっぽく錦子の髪の毛をひっぱった。
 見る見る、錦子の耳朶《みみたぶ》が、葉鶏頭《はげいとう》のような鮮紅《あかさ》の色になって、躰《からだ》をギュッと縮め、いよいよ俯向《うつむ》いてしまった。
 と、片側の赤|煉瓦《れんが》の、寮舎――ニコライ寺の学寮――の窓から、讃美歌が洩《も》れて来て、オルガンの合奏もきこえだしたので、美妙斎は錦子を抱《かか》えるようにして歩き出した。
 そんなことがあってから後だった。孝子に逢うと、錦子は、
「嫌になっちまうわ。」
と呟《つぶ》やいた。
「学校でね、跡見玉枝《あとみぎょくし》先生が、あたしの絵のことをね、あんまり濃艶《のうえん》すぎるって仰《おっ》しゃるのよ。それだけなら好いけれど、ベタベタしているって言うんですもの――」
「絵がなの?」
 孝子が問いかえしたことは、それは、女生徒の間にも、女教師たちの間にも、不言不語《いわずかたらず》に考えられていることなのだ。彼女が描く絵はとにかくとして、出京当時にくらべると、びっくりするほど急に女づくって、毎日々々綺麗になってゆくのが、目に立つのだった。
「あたし、種々《いろいろ》なことを覚えようと思ってるのよ、山田先生に教えて頂いて――」
と、錦子はいった。
「ちょいと、文学者たちって、紅《べに》さまだの、美《よし》さまだのって、手紙に書いてたのね。あたし、紅より、っていう手紙見て、ちょいと怒ったことがあるの。そうしたら、紅葉さんですって。」

 六月の日が照りはじめると、稗蒔屋《ひえまきや》や、風鈴屋や、金魚売、苗売の声が、節《ふし》面白く季節を町に触れ流してゆくようになった。
 本郷台も駿河台も、すっかり青葉になって、お茶の水橋はまっさおな間に、細く白く見えるようになり、下ゆく水は、覗《のぞ》かなければ見えなくなった。夜は、関口《せきぐち》の方から蛍《ほたる》が飛んで来て、時鳥《ほととぎす》も鳴きすぎた。
 その頃、どうかすると美妙が、じりじりしているのを、錦子は見逃《みのが》さなかった。小説は「萩《はぎ》の花妻名誉の一本《ひともと》」を発表してもらえることになっていた。
 そうした日の、ある夕ぐれ、青葉の匂いを嗅《か》いで、そぞろ歩きをしようと、当然帰途は美妙斎におくってもらうつもりで訪《たず》ねると、留守だった。
 賢《かしこ》そうなお母さんが出て来て、まああがれ、まあ上れと進めた。
 美妙斎がお母さん孝行なことは、話をしていてもわかるので、錦子もお母さんの進めに逆らわなかった。
「あなたは、他家へはお出《いで》になられないのでしょうね。御惣領《ごそうりょう》では――」
と、なんとなく、お嫁にゆかれるのかというような、口うらをひかれた。
「お宅は、お妹御《いもとご》さんおひとりですか?」
ともいった。
 錦子は、美妙のお母さんのいう意味を、意識しながら、自分には優しくしてくれる祖母がいるので、大概な願いは叶《かな》うのだというように言った。
 すると、継母ではないのかときかれたので、錦子はどぎまぎした。そんなはずはないとうち消した。
「でもね、財産のあるお家の、家督を捨《すて》て、いくらあなたが物好きでも……
前へ 次へ
全16ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング